いつもこの地区を通る度、この堀のことが気になっていたのですが、小学校の教科書「わたしたちの鹿沼市 3・4年 下 鹿沼市教育委員会」に久保田堀が載っていました。
内容(原文はひらがなが多いのですが漢字に置き換えます。)
●久保田堀をたずねて
久保田堀は、米を作るために水を引いた堀で、鹿沼市の北西部にあたる板荷にあります。中心部を黒川が流れ、まわりを杉や松の山に囲まれた山地です。この地域に、今から約130年前の明治時代の初めに久保田堀が造られました。
1.久保田堀が出来る前の板荷
【地元の方の話】
そのころの板荷は、田畑が狭く、できる作物は麦かヒエか芋などで、米を作ることは難しいことでした。近くに黒川が流れていても、川より土地が高いので水を引いて田をつくることができなかったからです。井戸水は飲み水には何とか間に合いましたが、雨が降らないと水が涸れてしまい、畑にまくほどありませんでした。そのため苦労して育てた作物も枯れてしまうことがよくありました。村人たちは、板荷を通る人たちに米のとれないことを「板荷三千石麦飯どころ」とからかわれ、水を引きたいという思いを強くしていきました。
2.堀を造る計画
このような板荷の人々の暮しを少しでも良くしようと、1869年(明治2年)に村の福田光房が中心になって、黒川の水を板荷の畑に引こうという計画を立てました。光房は、この大事業について、役人の久保田譲之助(くぼたじょうのすけ)にお願いすることにしました。譲之助は仕事の難しさに迷いましたが、光房や村人たちの強い願いに心をうたれ、引き受けることにしました。
しかし、村人の中には「そんなことに金をかけるくらいなら山に木を植えた方がいい。」などと反対する人もいました。そこで、譲之助と光房は何回も何回も村人と話し合いを行い、村人の家を回って久保田堀の必要性を説明しました。
やっとのことで村人の心を一つにまとめ、国から工事の許しをもらうことができたとき、二人はとても喜びました。
3.久保田堀づくり
工事は、1869年(明治2年)5月に始められました。初めは順調に進みましたが、やがて大きな困難にぶつかりました。用水路を引いて田畑を潤すためには、どうしても赤石山を通さなければなりません。赤石山は、硬い岩石でできた山です。しかし、村人たちはあきらめませんでした。大きな岩に突き当たると、たがねやハンマーなどの小さな道具で立ち向かいました。
掘っても掘っても続く硬い岩石に苦しめられましたが譲之助は「板荷の里に米を作ろう。」と村人を励まし続けました。そして、とうとう500mもあるトンネルを掘りぬくことができたのです。
それから数ヶ月、村人はくわやつるはしで土を掘っては、もっこで何回も何回も運びました。肩の皮がむけ、中には疲れて倒れる人もでました。
4.久保田堀の完成
その年の10月、長さ4.1kmの用水路が完成しました。村人の顔は、これから板荷の里にも米が実り、豊な暮らしができるという喜びにあふれていました。その後村人は、譲之助に感謝し、この用水路をいつまでも大切にしようと決意し、久保田堀と呼ぶことにしました。・・・・・・あとは省略します。
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