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 鹿沼市のいろいろ   栃木県鹿沼市
ふらりドライブ21.6.13車中撮影
日光西街道 大門宿
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この道は例幣使街道と壬生通りでもある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)は、徳川家康の没後、東照宮に幣帛(へいはく)を奉献するための勅使(天皇の使い:日光例幣使)が通った道である。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。
なお、楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と共通である。地元(栃木県鹿沼市〜日光市)では現在もこの区間(国道293号〜国道121号)を「例幣使街道」と呼んでいる。この区間にも日光杉並木が現存する。

日光例幣使は普段は貧乏な下級公家であるが道中では朝廷と幕府の権威を一身に背負ったため大変な権勢を誇った。公務であるため宿場や助郷村は無賃で道中に協力させられ大変な迷惑をこうむったという。以下のような話が伝わっている。
・駕籠が少しでも揺れると自ら駕籠の中から飛び出して『人足の不調法で駕籠から落とされた、この無礼を幕府に訴える』と主張し宿場や人足から示談金をせしめた・大量の空の長持を用意しそれに対し六人持ち(人足六名で担ぐ)、八人持ち(人足八名で担ぐ)などと指示を行い宿場が用意できる人数を大幅にこえる人足数をそろえるよう主張した。これは不足した人足分について宿場側より補償金をせしめるためである(例幣使側が直接人足を雇用したという建前)。勿論宿場側もしたたかであり値引きの交渉も盛んに行われた。
・江戸では幕府が用意した屋敷に滞在するが出立時には家財道具一式、それこそ漬物石にいたるまで前述の空の長持に詰め込んで出発したという。

◆いろいろ調べて見ると、1646年から例幣使の制度は発生したとあるので、200年以上もこの制度があったわけだから、例幣使がくることで、街道の宿場では大変な苦労をしたように思われる。こんなことを題材に時代劇がつくらているのだろう。だから例幣使街道は有名になりにくいのかもしれない。
◆大門宿は粟野・楡木方面の別れ道。道標がある。交差点を左折すると北押原中学校。大きな門があった宿という意味なのか。


↓大門を作成してみた。ちがうだろうなー