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●鹿沼市の風景         栃木県鹿沼市

押原神社 上殿町
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■説明板・・・内容がむずかしい。読めなかったり、意味が分からなかったりと苦労しました。
●押原神社の由来
祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)、相殿(あいどの:二つ以上の神を祀ること)天照皇大神(あまてらすすめおかみ:天照大神と同じ)、素盞嗚命(すさのおのみこと)、少名彦名命(すくなひこのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)なり。 本社は人皇第51代平城天皇 の御宇(ぎょ・う:帝王が天下を治めている期間)大同4年(809)9月19日の創建にて押原宗丸の勧請なり。


往古は押原の郷66村と稱せし(称する)が當(当)郷疫癘(えきれい:疫病のこと))に罹りて(かかりて)死する者多し、押原宗丸は大和国三輪大神を平素尊信す、或夜(あるよ)の夢に大神告げたまはく、我れを斉祀すれば疫癘(えきれい)熄む(やむ:止む)べしと忽ち(たちまち)覚む(さむ:覚めること)是に於て(ここにおいて)清浄の地を択び(えらび)臣杉(おみすぎ?)の下に霊祠を建て大物主命を奉斉す。疫病忽ち熄み(たちまちやみ)年穀(ねんこく?一年の穀物?)大に稔れり(実った)。


かくて押原郷の惣鎮守、押原杉本大明神と尊栄して宏壮(こうそう:広大でりっぱなこと)の社殿を建築せり。それより神殿村と稱へたるが後、上殿村と書くに至ったのは神と上との同訓により謬れるか(あやまられるか:間違われる)。 本社は黒川丹波守房朝崇敬の社なり。後天慶2年(1015)平将門 反叛(はんはん:謀反する)の時、平貞盛、藤原秀郷等が本社に戦勝を祈り速(すみやか)に追討して戦勝せしを以て、本社に弓箭鏡剣(弓・矢・鏡・剣)等を奉納せり。爾来、社賓たりしが惜しい哉、第92代伏見天皇 の正應5年(1292)8月回祿(かいろく:火事)の災いに罹り(かかり)社殿悉く烏有(ことごとくけう)に帰した。
寛正4年(1463)9月川俣勘太夫に至り本社を再築せり。


當明神は井戸を掘ることを嫌ひ給ひ貞享5年(1688)3月21日神祇官領長上ト部兼連に請うて神位宗源宣旨を以て正一位を賜はり、居民の安泰を祈りしより井戸を掘ること始まりしと云伝ふ。明治2年4月神祇官より押原神社と崇め奉る。因みに云ふ往古鹿沼神殿は一部落なりと又今の鹿沼高等学校の処に椎谷氏という豪家ありて神社辺迄土地を所有し神社の祭典には仝家よりの参拝を待ちて、後行(こうこう:あとから行くこと)へしとか口碑に残れり。 押原郷の部落を記せば

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昭和48年9月16日 吉日


古澤義雄 寄進・宇賀神廣作 謹書
28.11.27
2016.6.14 鹿沼市
押原神社・千手山公園・出会いの森のアジサイ