鹿沼図書館に、わら半紙に謄写版で印刷した「磨墨ケ渕」に関する次のような冊子が
ありました。小さい冊子でした。持ち出しができないので、全文書き写してきました。
上沢謙ニ殿 寄贈本
磨墨ケ渕 上沢謙ニ
昭和2年11月12日 大阪中央放送局より放送
まえがき
今からちょうど30年前、昭和2年9月から翌年にかけて、大阪中央放送局の企画で「子供の時間」に「国の伝説」というのを時々放送した。それは童話作家によって、自分の郷土の伝説を語るのであったが、私も依頼されて放送したのが、この「磨墨ケ渕」であった。
同放送局では、その中から15話を選び、「国の伝説」と題して、一巻にまとめて出版したが、その中に私の「磨墨ケ渕」も揚げられた。それを今回「磨墨ケ渕建碑」に際して謄写刷にしたのである。現在では変わっている点もあるが。
たとえば村は鹿沼市に編入された。わざと大体放送当時のままにした。表紙の画は、右単行本の挿画の中から採ったもので青木宏峰画伯の作品の模写である。まことしやかに小やかなものであるが記念の一端ともなれば、望外の幸いである。
昭和32年7月22日 上沢 生
磨墨ケ渕 (下野) ★写真は磨墨観音です。
下野国上都賀郡東大芦村大字引田字高畑東照宮で名高い日光や、銅山で名高い足尾に近い山の中。「高畑」といわれるだけに高いところに段々になって畑があります。その畑の中にぽっつりと一つ観音さまのお堂が建っています。村の子どもたちはよくそこへ集まってきます。
「馬かけしよう」「おうい、みんな、観音さまで馬かけするんだ、早くこいよう」そうすると、ヒーンヒーンという声がきこえて、パカパカという音がして、あっちこっちからもやってきます。
しかし、それはほんとうの馬ではない。子どもたちの口真似です。子どもたちは「馬かけ」という声をきくと、もう馬にのったような気持ちになって、両手で手綱を取るまねをして、両足で馬が走るかっこうををして、口でないて、音をいって、集まってくるのです。そうして観音堂の前へならんで「一、ニ、三」という合図に連れて、とっとっとっと、お堂のまわりをまわる「馬かけ」。ランニングの競争がはじまるのです。
お堂の奥にぽつねんと立っている木造の観音さまは、この有様をだまってにこにこ見ているようです。お堂のそばに桜の木の切り株があります。前には毎年春になると美しい花をつけたのですが、いつか枯れてしまいました。けれど馬かけがはじまると、「一、二、三っ」と合図をするものは、きっとその切り株の上に乗って、大きな声を出します。
観音さまのお堂から路をくだっていくと、ゴウゴウという音がきこえてきます。末は鬼怒川にはいる大芦川の流れる音です。その流れがよどんでしずかになって、深い渕をつくっている底に、白い平らな岩がありますが、その岩の表にはっきりと一つ、馬の蹄のあとが、彫りつけられたように残っています。夏になると、子どもたちはよくそこで水泳ぎをします。
「ずんぶっくぐりっこしよう」「おうい、みんなずんぶっくぐりっこするんだ、早くこうよう」そうすると、あっちこっちに泳いでいた子どもたちは「おう」「おう」と返事して集まってきて「ずんぶっくぐりっこ」がはじまります。それは水の中に深くくぐっていく競争で、川の底までくぐったというしるしに、底にある小石をひろってくるのですが、底に蹄の形のついた白い岩があるのです。子どもたちはよく知っているのですが、橋の上から見ると、深い渕は真蒼(まっさお)で、爪のあとなどまるでわかりません。
二
今から八百年ほど前、源氏と平家の戦がはじまった頃、今は畑になっているあたりには、芦がたくさん生えていました。そうして水がゆたかで、草が茂って自然に牧場のようになっていました。だから、その辺のお百姓さんは、よい馬をもっていました。
「引田の郷(さと)」といえば、馬で知られていました。朝夕、芦の間に馬の姿がちらちら見えましたが、中でも特別に目につく馬がありました。からだも大きく、足も長く、がっしりしていましたが、それよりも何よりも、色がすてきでした。黒いのですがまっ黒々。飽くまで黒い。見れば見るほど黒い。そうしてつやがある。日にあたるとぴかぴかと黒光りがする。それは珍しい馬でした。それで「黒」という名がつきました。
「いや、これはたいした色だ」見て、そういわないものはありません。畑の中に小さい原があって、原の中に一本桜の木がありましたが、「黒」はこの木がすきらしく、よくそばであそびました。ひらひらと散る花を追いかけてるようにして、あっちへはねたり、こっちへとんだり、ぐるぐるまわったり、一日くりかえしても飽きないようでした。だんだん大きくなると、川がすきになりました。
矢のように流れる大芦川。その昔は、今、渕になっているところも激しい流れだったそうですが、毎日その中にとびこんでは泳ぎました。そうするうちに、いつしか平気で川を越すようになりました。つづけざまに平気で行きかえりするようになりました。そんな馬はなかったので、「黒」は色のほかに川を越すのがうまいので、また評判になりました。
或る時、雨がふりつづいて、たいそう水が増して、流れは凄い有様になったことがありました。「水があふれだしやしないか」心配になった人たちが岸に立っていると、向岸にひょっこり「黒」の姿があらわれました。「おやっ」びっくりした人たちはいいました。「この大水を越えて、向岸へいったのだろうか」「まさか・・・・いくら『黒』でも、この水には叶うまいがな」そんなにいっていると---ざぶっん!----水烟を立てて「黒」は川の中へとび込みました。
「ひやあっ」けたたましい叫び声を出したのは「黒」の飼主です。「やや、やっ」ほかの人たちもおどろいて叫び出しましたが、あとのことばが出ません。みんなだまって、手に汗を握って、水の中にうごく「黒」の頭を見つめました。ドド、ドドーッ!時々ひどい波が寄せてくると「黒」の頭がふっと見えなくなります。そうして、またあらわれます。そのたびに飼主は地団駄(じだんだ)をふんで、おどりあがって「ああああ、おうおう、わあ、わあ」と、いろいろな声を出します。けれども「黒」の頭は、おおいかかる水を押分け押分けて、とうとう岸の下まで来ました。
その時、ひときわ大きい波がドーンとかぶってきた-------途端に「黒」の姿は、ポーンと、空高くとびあがりました。そうして「あっ」という間に、もう飼主の前に足をそろえて立ちました。立つと、首を伸ばして、一声長く大きくいななきました。ヒーンヒヒヒ、ヒーン!「うわあっ}という声が、一度にみんなの口からほとばしり出ました。飼主はいきなりパッと馬の頚へとびついて、うんとしがみついて、ぴったりとかじりつきました。そうしてぽろぽろ涙を流しました。
水からとび出す時、「黒」は底の岩をあと足で力いっぱい蹴ってひととびに飼主のいる岸のうえへとびあがったのです。あとで見ると、その岩の表に、蹄のあとがはっきりと、彫りつけられたように残っていました。「たいへんな力だな。これは・・・・・」「なるほど、これくらいの力がなくては、あの水の中から岸の上へとびあがることはできねえな」「いやおどろいた馬だ」みんな舌をまいてしまいました。
三
「稀代な名馬」「日本一の名馬」と「黒」の評判はいよいよ高くなって、とうとう、鎌倉の源頼朝公に献上することになりました。じっと見た頼朝公はいいました。「ほう、珍しい色じゃ。磨った(すった)墨よりも黒い」そのことばをこのまま取って「磨墨」と名づけられ、頼朝公の愛馬の一つになりました。元歴元年正月二十日。宇治川をはさんで源義経と木曽義仲の軍勢が陣をとりました。水は深く、流れは早く、川幅は広い。けれどもそれを越えなければならない。
義経は号令しました。「誰かある。宇治川の先陣をつとめるものは」その時、平等院小島ケアにあらわれた武者ニ騎。ひとりは栗毛の馬、ひとりはまっ黒な馬にまたがって、風のように走りだしました。栗毛は「生月」。黒は「磨墨」。馬上の人は佐々木四郎高綱、梶原源太景季。二人とも、頼朝公の愛馬をいただいて「このたびの宇治川の先陣はわれこそ」と、意気ごんでやってきたのです。どちらが先になるかと見ていると、磨墨が生月を越して、ざっと川へ走りこみました。
川の向岸の敵方からふるように射てくる矢を、冑鎧を傾けてよろけながら、太刀でふり払いながら進みましたが、高綱はうしろから声をかけました。「梶原殿、馬の腹帯がゆるんでいると見えまする」はっと思った景季がしめなおそうとしている間に生月が先に出たので「しまった」と思った景季は、大いそぎで追いかけました。磨墨は波に乗り、流れを蹴って、だんだん追いつく。
両方の間は次第に狭まって、あわや並んだかと思われたが生月が一足先に岸にあがりました。「佐々木四郎高綱、宇治川の先陣いたしたり」と、大声でいいおわるかおわらぬうちに、磨墨もさっと岸にあがりました。「梶原源太景季、ここに先陣いたしたり。」と大声で名乗りをあげました。
四
生月、磨墨、どちらも天下の名馬でしたが、宇治川の競争では、初めから磨墨が先になったこと、途中でおくれても追いついたことからいうと、ほかのことでは兎も角、川を渡ることでは、生月よりも磨墨の方がまさっていたといってよいかと思われます。そうして、また実際、磨墨は小さい時から、あの大芦川の急な流れで毎日、川越えの練習をしていたのですから、その筈だと思われるのであります。下野国上都賀郡大芦村大字引田字高畑。そこにある古い観音堂と桜の切り株と、深い渕の名は「磨墨の観音」「磨墨の桜」「磨墨ケ渕」といわれています。 |