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0024 下野市     久保公園と推定「東山道跡(北台遺跡)」     22.3.21
■説明板・・・(旧国分寺町小金井)
●推定 東山道跡(とうざんどうあと)(北台遺跡(きただいいせき))
今から約1,300年前の律令国家の時代に中央(都)と地方を強く結びつけるため、奈良の平城京を中心として七つの幹線道路(東海道(とうかいどう)・東山道(とうざんどう)・北陸道(ほくりくどう)・山陽道(さんようどう)・山陰道(さんいんどう)・南海道(なんかいどう)・西海道(さいかいどう))が整備されました。下野国内を通っていた東山道は、都から近江(滋賀県)・美濃・飛騨(岐阜県)・信濃(長野県)・上野(群馬県)・武蔵(東京都・埼玉県)の諸国を経て下野国に入り、ここから陸奥(東北地方)へ向かっていました。中央から東国や陸奥に派遣される役人や兵士、東国から北九州の警備のために派遣された防人(さきもり)と呼ばれる人たちもこの道を通っていました。

これらの駅路(えきろ)と呼ばれる官道には30里(約16km ※当時の一里の基準で算出したようです。)ごとに駅家(うまや)が置かれ、東山道の駅家には10頭の駅馬(はゆま)が用意されていました。平安時代に記された『延喜式(えんぎしき)』によると、下野国内には足利(あしかが)・三鴨(みかも)・田部(たべ)・衣川(きぬがわ)・新田(にいた)・磐上(いわかみ)・黒川(くろかわ)の七つの駅家が設けられていたことがわかります。この場所(北台遺跡)からは、区画整理事業の際に両側に側溝をもつ道路が確認されています。側溝間の幅が約12.3mで、道幅はおよそ10.5mです。当時の路面は残っていませんでしたが、側溝の土の堆積状況から2時期の変遷が認められ、側溝から出土した土器の破片から、西暦700年代の初め頃につくられた道と考えられています。以前より下野国府(しもつけこくふ)から下野国分寺・尼寺付近を通って、下野薬師寺方面に東山道がのびていると考えられていました。また近年、県内でも10数箇所のすいて東山道跡が確認されており、当遺跡もその位置と道路の規模から東山道跡と推定されています。