■説明板・・・
●正一位霊験稲荷社縁起
この正一位霊験稲荷社は、足利学校第7世庠主(しょうしゅ、※「庠」とは学校を、「庠主」とは校長を意味するということが足利市のHPにでていました。)玉崗瑞璵(ぎょこうずいよ:=(九華瑞璵(きゅうかずいよ))が書いた天文(てんぶん)二十三(1554)九月の棟札(むなふだ)に、足利学校の鎮守である稲荷大明神が、年代が古く神体・社殿ともに破損しているので、あらたに神体を造立し、社殿を造営し、八幡大菩薩を合わせ祀ったとあるから、稲荷社の創建は天文23年(1554)9月よりかなり時代がさかのぼると思われる。江戸時代この稲荷社は、霊験あらたかで足利の町の人々をはじめ近郷近在の人々が信仰し、祭礼におおぜいの人々が参詣した。またこの稲荷社の狐は、足利の町に異変がおこりそうな時は、前の晩などに危険を知らせて人々を守ったので、人々から大事にされたという。江戸時代足利学校では毎年11月に、御供小豆飯(おそなえあずきめし)をわらにのせ、狐の穴に供えていた。この稲荷社が霊験あらたかなので、明和7年(1772)第16世庠主千渓元泉(せんけいげんせん)が、もとの稲荷大明神を改め、正一位如意(にょい)霊験と尊崇し、正一位霊験稲荷社とした。社殿は天文23年(1554)創建当時のものと思われるが、明和9年(1772)あらたに梅や竜などの彫刻を社殿にとりつけた。参道にある灯籠は、元文(げんぶん)2年(1737)に足利町の石井新五兵衛・亀田市郎兵衛の寄進、水屋の手水鉢(ちょうずばち)は江戸の大井権左衛門の寄進であり、明治42年(1909)図書館のところにあった社殿とともに現在地に移された。神前には佐野の天明で作られた灯籠がある。
平成11年11月吉日
※(辞書 九華瑞璵 きゅうか-ずいよ
1500-1578 戦国-織豊時代の僧。
明応9年生まれ。臨済(りんざい)宗。大隅(おおすみ)(鹿児島県)の人。儒学にも通じ,とくに詩文で知られた。天文(てんぶん)19年下野(しもつけ)(栃木県)足利学校の学頭となり,北条氏政(うじまさ)の帰依(きえ)をうけ,戦乱で荒廃した同校の復興につとめた。天正(てんしょう)6年8月10日死去。79歳。字(あざな)は玉崗(ぎょっこう)。号は九華老人。) |