説明板
白沢宿
江戸時代に整備された五街道の一つである奥州街道(道中)の第一宿としておかれたのが白沢宿でした。宇都宮で日光街道と分かれ、白沢宿から白河宿まで二十三里約(90キロ)が十宿で構成されました。16世紀以前は純農村でしたが、宿のルーツは関ヶ原の戦いの序曲になった徳川家康の上杉攻めにさかのぼります。
すなわち徳川軍が鬼怒川を渡るとき、その案内役をかって出たのが、白沢村庄屋の宇加地家と、上岡本の庄屋の福田家でした。その功績が認められ戦いの後両村共同で白沢宿という名で往還宿を構成することが許され、慶長14年(1609)には、町割も完成し、両家は御用を勤め問屋になっています。天保14年(1843)には本陣1、脇本陣1、旅籠屋13軒を数えていました。
白沢宿は江戸から明治になっても、大いに栄えました。明治18年奥州街道が現在の国道4号線に移り、おかげで現在の宿のおもかげを今にとどめています。白沢宿がしのばれる由緒ある家並みを保存していくため、むらづくり事業を契機に、用水堀に鯉を放流し環境美化に努め、後世にその歴史を伝えていきたいと思います。
昭和62年3月吉日 白沢宿保存会 |