19.1.22■説明石(石に刻んであります。)
●八幡宮由緒記
五行川の東岸、清水湧き出る処は古来桜の里とよばれ、文明4年(1472)宇都宮家臣記に桜野城の記録があり、城館は字お瀬戸に築かれ集落ができ八幡川のほとり字松原に誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)を祭神とした八幡宮を勧請した。八幡神は仏教と深く結びつき八幡大菩薩と称し、神仏習合の信仰となり、別当八幡山一条院薬王寺が開基され、祭日は8月15日である。八幡宮の創建は明確ではないが、安永6年(1777)の寺開基起立帳に薬王寺開基は応永31年甲辰(1424)とあり、八幡宮も同じく室町中期ごろの創建と思われる。
江戸初期、寛永4年(1627)奥州街道が開通し、氏家宿が整備されると櫻野村も街道両側に農業を兼ねた商家や職人たちの家並みができ八幡宮は松原から字北原の雷神社南に遷宮された。天正年間の遷宮説もあるが、寛永末期以降とされている。幕末のころには櫻野商人の活躍がみられ、八幡信仰も盛大となり、文化13年(1816)に八幡宮新造営が決議され、文政元年(1816)本殿を90両で宇都宮高田仲右衛門が請け負い、同5年(1822)11月2日上棟式となりその盛況は奉納大絵馬、当社上棟図に式典や。奉納相撲、見世物、群衆などの姿が克明に描写され、当時の風俗を知る資料として氏家町文化財に指定されている。同9年(1826)8月15日新殿に遷宮祭が挙行された。本殿は総欅白木造りで、伝説登龍門、巨象など珍しい彫刻で飾りつくされた江戸後期神社建造物で氏家町文化財である。このころ、馬場先参道も改修されて奥州街道に直結となった。
八幡宮の伝統奉納相撲は江戸中期の寺社調査帳にも、毎年8月15日祭礼にて近村より相集まり相撲興行仕り候とあり、嘉永6年(1853)日本相撲行司12代木村庄之助利政は八幡宮に心願をかけ大願成就の御礼に例年土俵と4本柱一式を奉納した。明治2年(1869)大相撲興行があり、花形力士と四股名のある大絵馬があり、奉納相撲は現在も伝承されている。
西東 山のにしきや 花ふすま
明治初年別当薬王寺は神仏分離され、八幡宮は村社の社格となり、氏子、神職によって祭礼奉仕がつづけられた。昭和3年(1928)社頭玉垣が造成し、その後、社域拡張があり雷神社は境内に合祀された。
八幡宮が櫻野に鎮座して500幾星霜、鎮護安穏の神威は弥増し、豊饒福徳、子孫長久の神徳は厚く、奉賛する氏子は350余戸に達し、例大祭にあたり八幡宮の由緒をここに謹記し奉る。
昭和60年9月15日
氏家町文化財保護審議会委員 長嶋元重謹記 |