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●氏家町の風景 現 栃木県さくら市 |
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今宮神社 |
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18.11.20・他に19.1.22 |
■説明板・・・
●今宮神社本殿(建造物)
鎌倉時代から氏家郡24郷の総鎮守として崇敬された今宮神社は、正安2年(1300)に大造営が行われ、郡内郷村の頭役(とうやく)による例大祭が慶長2年(1597)の勝山城の廃城までつづけられた。江戸時代に入って、神域・社殿・氏子などは縮小されたが、近郷からの今宮信仰はなお厚く、寛文3年(1663)に本殿が造営された。本殿は流造り(ながれつくり)。屋根は杮葺(こけらぶき)が銅板葺となり、千木(ちぎ)・勝男木(かつおぎ)を付けた。間口2間2尺、奥行2間2尺5寸。妻(つま:建物の側面)は二重虹梁蟇股(こうりょうかえるまた)の装飾を付け、左右の妻上部には激浪を越え進む鯉群を彫り廻らし、その上部には飛龍から大龍となる登龍門の彩色彫刻。内部には神殿板扉の絵画、向拝廻りの象木、獅子頭などの極彩色彫刻があり、その他全体に弁柄(べんがら:朱色)が塗られている。江戸初期の神社建築であり、当地方最古の建造物である。
昭和60年11月28日指定 氏家町教育委員会(現さくら市) |
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■説明板・・・
●今宮神社句額(いまみやじんじゃくがく)
江戸時代中期、氏家宿・桜野村で俳諧をたしなむ人々が増え、氏家連・桜野連なる俳諧結社ができた。幕末になると俳諧人気はさらに高まりを見せ、氏家宿を中心に「卯の花連」が結成された。本句額は、弘化4年(1847)「卯の花連」が氏家の総鎮守今宮神社に奉納したもので、「卯の花連」の名が見える最古のものである。選者は江戸の宗匠・八巣、書は宇都宮の文人・堀摘翠(ほりてきすい)である。「卯の花連」の俳人である平石凱山(氏家宿本陣を勤めた)・石井樵巣(しょうそう)(氏家宿脇本陣を勤めた・後の青什(せいじゅう))の他、押上の長嶋梅芳、富野岡の見目志翠、二本松の大原東里等、27名の名が見える。梅芳・志翠は農民であり、この時期に俳諧が庶民の間にも浸透し、また、俳諧を通して江戸や奥州との広範囲な文化交流があったことが理解できる。
氏家町 氏家町教育委員会 (現さくら市) |
■説明板・・・
●天保飢饉絵馬(民俗資料)
江戸後期の天明・天保期は全国的に大飢饉となった。特に天保の飢饉は長期におよび、人々は想像を絶する困窮に陥った。奥州街道や氏家宿・阿久津河岸は飢えた難民があふれるほどの凄惨さであった。人々はひたすら神仏に祈願し、やがて天保10年をすぎるころには豊作となり、物価も安定した。氏家宿近辺の村役人や商人たちは、未曾有の大飢饉体験を後世に伝えようと、欅の一枚厚板に、巨匠谷文晁(たにぶんちょう)の門弟・文海(ぶんかい)が描いた極彩色密画(ごくさいしょくみつが)「四季農耕図」の大絵馬を今宮神社に奉納した。この絵馬には天保飢饉中の年ごとの米穀・塩・肥料・野菜など日常諸物価の暴騰ぶりが記録されている。数ある絵馬の中で、記録性をもち、資料価値を有する絵馬は稀で(まれで)、この絵馬は近世の氏家地方の災害史や経済・文化を考証する上で貴重な資料である。
昭和59年3月1日指定 氏家町教育委員会 |
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●今宮神社楼門(建造物)
鎌倉時代後期の正安2年(1300)氏家氏によって遷宮と大造営が行われた今宮神社には、平重門と回廊が付けられ、楼門は政所(まんどころ)により寄進された。神仏習合が深まった江戸時代初期、古記録によれば「寛文九年(1669)乙酉明神二王門建」と楼門が再建され、それは神門より山門風であった。宝永3年(1706)、祭神スサノオノミコト、正一位今宮大明神の神格が認可されて、崇敬する氏子が増し、文化8年(1811)、近郷や東北南部の人々により、現在の楼門が建立された。間口3間5尺、奥行2間。3間1戸の入母屋造り。銅板葺。上層は外縁(そとえん)・高欄(こうらん)を廻らし、下層は12本の欅丸柱造り。上下層とも二軒本繁垂木(ふたのきほんしげたるき:二重垂木)で重厚な建造物。楼門は神格の象徴であり、当地方で江戸期の楼門は当社のみである。
昭和61年11月28日指定 氏家町教育委員会(現さくら市) |
↓楼門 |
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