なんとなく落ち着つきます。屋号の町並み。次回はゆっくり廻ってみたい。
■説明板・・・石造り(台座設置協力 芦野石振興会)
館山城址(たてやまじょうし) 「館」は「たち」とも「たて」ともいい、国司(こくし)・郡司(ぐんし)などの官舎を意味し、多くは土塁や堀を巡らした城塞(じょうさい)をなした。地方豪族の居所(いどころ)をいう。館山の地名は、現在の千葉県にある里見氏(さとみし)の居館跡(きょかんあと)や那須与一誕生の地(なすよいちたんじょうのち)と伝えられている「高館城(たかだてじょう)」が知られている。
芦野氏第2代の城館(じょうかん)である「館山城(たてやまじょう)」は、切り立つ岩山の丘陵地形を利用した要害(ようがい)で、前館(まえたて)、中館(なかたて)、後館(うしろたて)に区分され、東側を流れる菖蒲川(しょうぶがわ)を天然の堀とした極めて堅固な山城である。山頂や山腹には土塁や郭跡(くるわあと)の遺構がわずかに残っている。芦野の地は奥州との境に位置し、室町時代には北に白河結城氏、東に佐竹氏、南に宇都宮氏と対峙し、抗争を繰り返した。この城の築城は応永(おうえい)年間(1394-1428)と伝えられている。この時期は、個人戦法から集団戦法への変化に伴い、武士の居館が平城(にらじろ:芦野氏居館)から山城へと移行し、戦略的な変革時期でもある。
その後、狭隘(きょうあい)な地形と飲料水などの条件から、戦国時代の天文(てんぶん)年間(1550年頃)に、東方にある御殿山(ごてんやま:芦野城)を築城し、移転したと伝えられている。この間(約150年間)、芦野氏はこの地を拠点に那須氏の一翼として活躍したのである。江戸時代以降、廃城となった館山城は、芦野石の石切場となり、その面影をしのばせている。ここに、芦野八景の一つ「八畳石(はちじょういし)」があったが、芦野小学校建設の時にその礎石として利用され現在はない。 芦野石は国道294号線沿いの地域で産出される地場産品である。準硬石(じゅんこうせき)で加工がしやすく、石塔・墓地外柵(ぼちがいさく)・倉庫・石塀・門柱などに使用され、現在は、公園・広場の敷石にも幅広く利用されている。
芦野地区地域づくり委員会・那須町 |