●上三川城主 今泉家累代の墓 長泉寺
宇都宮第五代城主頼綱(よりつな)の二男頼業(よりなり)はまず横田(宇都宮市兵庫塚)に築城し横田氏を名乗りましたが、多功城築城の翌年、建長(けんちょう)元年(1249)上三川に新たに城を築いて移りました。以後代々上三川城主は横田家でしたが、第七代師綱(もろつな)の時、康暦(こうりゃく)2年(1380)、主家宇都宮氏と小山氏が合戦した裳原(もばら)=茂原の激戦に師綱と長男綱業(つななり)が重傷を負ったため、今泉郷に住んでいた綱業の弟、元朝(もととも)が上三川城主を継ぎました。
これから上三川城主は今泉を姓として、慶長(けいちょう)2年(1597)第十四代高光(たかみつ)が落城自刃するまで続きました。この墓は上三川城主今泉家のものです。墓塔(ぼとう)は宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、室町時代の特徴を示しています。
●上三川城主 横田家累代の墓 善応寺
宇都宮第五代城主頼綱(よりつな)の二男頼業(よりなり)はまず横田(宇都宮市兵庫塚)に築城し横田氏を名乗りましたが、多功城築城の翌年、建長(けんちょう)元年(1249)上三川に新たに城を築いて移りました。以後代々上三川城主は横田家でしたが、第七代師綱(もろつな)の時、康暦(こうりゃく)2年(1380)、主家宇都宮氏と小山氏が合戦した裳原(もばら)=茂原の激戦に師綱と長男綱業(つななり)が重傷を負ったため、今泉郷に住んでいた綱業の弟、元朝(もととも)が上三川城主を継ぎました。
これから上三川城主は今泉を姓として、慶長(けいちょう)2年(1597)第十四代高光(たかみつ)が落城自刃するまで続きました。この墓は上三川城主横田家のものです。墓塔(ぼとう)は宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、鎌倉、南北朝時代の特徴を示しています。
上三川町教育委員会
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