●西方村指定有形文化財 木造八百比丘尼座像 昭和56年3月5日指定 (現在は西方町です。)
昔むかし朝日輝命(朝日長者)と夫人の夕日照命が都よりくだり、この地(愛郷(マナゴ))に暮らすことになりました。庚申さまの恵みにより女の子をさずかり八重姫と名付けられました。十五、六才ともなると八重姫の美しさは都まで聞こえるようになりました。天皇(第十代 崇神天皇)は都に召し出そうとしましたが姫はそれをきらい真名子の里を離れることになりました。
その途中、老翁(青面金剛の化身)に出合い、目もくらむような立派な家に案内され幸せに暮らしておりましたが、四、五年もすると両親のことがしきりに恋しくなり再び真名子の里にもどってまいりました。
するとあたりは一変しており、知っている人も自分の家もなくなっていました。姫は自分の姿を池(姿見の池=真名子八水の一つ)に映してみたところ若い娘のままでしたので、それほど長い年月がたつとはおもえませんでした。だが、じつは八百年が過ぎていたのでした。
やがて姫は尼となり妙栄と名を改め四国の旅にでかけました。諸国の神社やお寺を巡礼し最後に若狭の国(福井県)に庵をむすびました。そこで自分自身の姿を二体きざみ一体を真名子に送り一体は若狭の小浜に残しました。八百歳も長生きした姫をしのんで、若狭の国では八百姫大明神として、また真名子では八百比丘尼さまとしてまつられ今の世につたえられたものです。
昭和五十九年九月十九日 西方村教育委員会 西方村文化財保護委員会
●姿見の池の案内
男丸(おとこまる)の鏡水別名「姿見の池」と呼ばれ、八百姫が家出して数年後故郷に帰ったとき数百年すぎたといわれた自分の姿が、まったく変わらず娘の姿そのままに世の無情を感じ、仏門に入る決心をした池とされ、今も、八百比丘尼堂(おびくにどう)の横に清水が湧いています。 |