■説明板
●草雲先生について
画聖草雲先生は幕末の志士にして通称恒太郎明義と称す。先生は江戸神田神保町の足利藩主戸田主藩邸に生きる。文化12年10月15日の朝なり、幼少にして生母に死別し父方の羽山氏に寄寓成長せり、先に祖父甚内羽山家より出でて上野の国島村の田崎家の養子となる。田崎氏は当時有名なる画家金井烏州(かない
うじゅう、寛政8年(1796年) - 安政4年1月14日(1857年2月8日))は江戸時代後期の画家、勤皇家である。
上野国伊勢崎(現在の群馬県伊勢崎市境島村)に生まれる。先生の縁戚なり、先生は剣を千葉氏に、画を加藤梅翁、谷文晁に学ぶ。多年粒々辛苦の末、文武両道に優達し、博学多才、南宋画の泰斗となる。明治23年帝室技芸員を拝命し、宮中に度々召出され画筆をとられたり。先生は恩義のある真名子をこよなく愛し梅樹谷(真上)に幾度か足を運び家族と談笑し往時を追懐したり、後年足利の白石山房にて多くの門人を育成し明治31年9月1日84才をもって永眠さる。
遺言によりこの地梅樹谷に分骨し墓碑を建立し之を祀る。対象4年畏きあたりより勤皇の志士として従五位のご沙汰を拝す。無上の光栄と言うべし。因みに画家として贈位ありたるは崋山先生と二人のみときく。・・・・ |