■説明板・・・
●西方町指定有形文化財 西方城主後衛(こうえい)の墓所
西方遠江守景泰(とおとおみかげやす)は、永仁元年(1293)に宇都宮氏から分家して城を築き初代西方城主となった。爾来、足利氏旗下として、宗泰(むねやす)、綱泰(つなやす)、綱貞(つなさだ)、綱朝(つなとも)と続き6代目から西方太郎左衛門尉(さえもんのじょう)を名乗るようになった。6代目西方太郎左衛門尉綱定は、佐野唐沢城主や皆川山城主広照と数回激しい戦いを交えた。その一方、永禄年間に当山那智山実相寺を興した。7代目西方太郎左衛門尉綱吉(つなよし)は織田信長に仕えたが、その生害後は上杉景勝についたため、天正15年(1587)に落城の憂目(うきめ)を見る。ここに初代以来、290余年を以って城主の座を追われた。8代目西方太郎左衛門尉綱清(つなきよ)と養子の9代目西方太郎左衛門景英(かげひで)は、これまでの由緒を以て扶助される。10代目西方太郎左衛門尉景高(かげたか)の母は8代綱清の娘で、父は輝定の家臣遠藤六郎左衛門で、その次男としてうまれ綱清の養子となる。綱清の死以前に高崎城を出て牢人となり、西方の当寺に住むが正徳元年(1771)武芸修行のため江戸に出て野沢新助と改名する。しかし、修行半ば20才の正徳4年(1774)に西方郷阿久津勝右衛門の必死の看病も空しく江戸で病死してしまう。勝右衛門が当時に石塔、墓を建立したものである。10代目以降子孫、係累なく断絶となるは是非なきものである。
出典「西方記」 西方町教育委員会 |