高龗(雨かんむりに龍)神社縁起 たかおじんじゃ
当社の由来は天慶(てんぎょう)3年(940)御祭神高龗神を奉祭し享保14年(1729)に正一位を吉田家より受領したと伝えられている。たまたま猪倉の地名のおこりの伝説がある。則ち(すなわち:即ちと同じ)「天慶年間に平将門が藤原秀郷とこの地に会し共に飯を食べた。将門が落とした飯粒を拾って喰う失態を演じた。これにより飯喰粒(いのくら)と呼ぶことになった。」ということで当社を猪倉村の起源とは関連が由なしとはしないがこれは伝説である。唯(ただ)当社他の高龗神社とは全く異にする御祭神を祀っている。
則ち高龗神は正しく菩薩像であり代々泉福寺が祀主(ししゅ?)であったのである。この由来を案ずるにそもそも平安時代の本地重跡説による神仏調和の考え方が次第に発展して鎌倉時代には菩薩像を祭神とする神社が建立されたと国史に示されている。従って当社は全くこれに該当するわけである。神社奉祭の起源は天慶年代であったとしても、現在の御祭神は鎌倉時代に祀られたことは明白である。猶(なお)当社には次に述べる貴重な史実がのこされている。
其の一つは御神木のことである。御祭神を安置する社壇の内側に次のことが墨書されている。元亀(げんき)4年(1573)にこの境内に樅の木を神木として植えた。天明2年(1782)に天雷(てんらい?)が下り枯れたので代わりに檜を植えた。寛政4年(1792)に別当泉福寺法印秀如が前の樅の木で社壇を作り奉納した。その樅の木は樹齢217年で周1丈2尺であったと。
其の2として正一位高龗大権現別当泉福寺として、17名の宮座が▲された文政7年(1824)の原木が保存されている。村の祭政一致の姿がよくわかる。
其の3は御宮造営と寄進の事実である。延宝(えんぽう)5年(1677)に石の大鳥居が建てられ、宝永元年(1704)に六地蔵塔が寄進され元文元年(1736)には現在の御本殿が造営され同年に惣氏子と石灯籠一対が寄進されている。猶昭和9年(1934)には拝殿・お鞘殿・社務所が新築落成した。
明治以降に寄進された主なものは、玉垣一式、御手洗建物並びに水石唐獅子一対、御神灯一対等である。
御宮修復・・・・途中省略・・・かくて明治初年神仏分離令による廃仏毀釈の大変革に遭遇したにもかかわらず当社御祭神のみは御安泰で氏子を守護さるる御慈悲は幾年経るとも変わることなく今日に及んでいる。氏子、崇敬者も亦猪倉総鎮守として大社の弥栄を祈念申上げて居る次第である。
昭和56年辛酉11月1日
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