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●馬頭町の風景   現 栃木県那珂川町
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武茂氏墓碑 乾徳寺


■説明板・・・
●乾徳寺の由来
大渓院 瀧沢山 乾徳寺と称す
大本山は福井県永平寺 横浜市総持寺
武茂城跡は山門に向かって左側の山一帯と右側の山一帯の根古屋が城跡としてのこっている。本丸、二の丸、三の丸と続き昔のおもかげがのこされている。正応永仁(1288年)伏見桃山時代、武茂泰宗が築城した。泰宗武茂庄十余郷を領して武茂氏となる。応永14年(1407年)武茂氏一旦断絶する。寛正(かんしょう)4年(1463年)宇都宮正綱の三男兼綱が武茂氏を相続し、一万石の領主となる。兼綱、乾徳寺を建立、武茂家の菩提寺とした。武茂累代の墓石が当山の墓地中央にある。山門は武茂家の門として武茂家の定紋が両側に刻されており、菩提寺へ寄贈されたものである。様式は桃山時代の建築を取り入れ、質素な建造物である。改修札に安永2年霜月大改修の棟札が残されている。乾徳寺は三面山岳を以って渓間幽谷の地にあり、東に滝ケ沢、西に闇ケ沢、かかる浄音の地にあるも、偶偶(たまたま)明治36年4月8日、町内よりの飛火に不慮の火災に逢い七堂がらん悉く(ことごとく)灰燼(かいじん)に帰せり、再建に檀徒の総力と信者の浄財を得て、同44年4月4日当山四十一世保寿代、8年の歳月を以って現在の本堂及び開山堂が再建されました。
・・・・・以下省略します。


■説明板・・・
●馬頭町指定文化財(昭和43年3月13日指定) 武茂(むも)氏墓碑
武茂氏は、下野国中央部に勢力を誇った宇都宮氏の支族で、鎌倉幕府高位官僚の評定衆として、執権の補佐にあたった宇都宮7代城主景綱の三男、泰宗を始祖とする一族です。泰宗が武茂氏を起こしたのは鎌倉時代末期の正応・永仁年間(1288-98)の頃とされ、15世紀中頃から16世紀初頭にかけて一時断絶期間がありますが、戦国時代末期の文禄4年(1595)までの約300年間、馬頭町一帯を支配しました。乾徳寺は武茂一族の菩提寺で、この石塔類は一族に関係するものと考えられ、古文書により、江戸時代の享保16年(1731)に散逸していたものをここに整理したことが知られています。現在10基ほどの宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔がありますが、完全なものは3基で、他は石組みが乱れています。一部鎌倉時代から南北朝期にかけて造られたものもみられますが、宝篋印塔の相輪部・笠の突起部・基壇の簡略な石刻みの手法からみて、戦国時代末期のものが大半を占めています。このほか境内には、完全な形ではありませんが、40基近い宝篋印塔・五輪塔が散在しており、これらも武茂一族に係わるものと推定されます。
那珂川町教育委員会