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| 26.4.16 日光市 砂防塔 |
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| 2014.4.16 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 日光市 砂防塔 26.4.16 ■説明板・・・ ●砂防(さぼう)と地域の発展 この大谷川(だいやがわ)は華厳の滝から始まり、途中多くの渓流を合わせて旧日光市を縦貫し旧今市市で鬼怒川に合流しています。その水は生活、農業、発電等の用水に利用されて私たちにとってかけがえのない大切な資源となっています。また、魚や水生生物を育み訪れる人々の心にやすらぎを与えてくれます。しかし、ひとたび豪雨にみまわれると、山腹(さんぷく)は崩れ(くずれ)土石流(どせきりゅう)となって膨大(ぼうだい)な土や石を押し流して凶器と化し、この地域に古くから大被害を与えてきました。みなさんがお立ちになっている付近は1662年(寛文(かんぶん)2年)以降幾度となく洪水で濁流が思いのままに流れたところです。その後絵図のような砂防工事が行われ、河原であったこの地に立派な運動公園がつくられ、レクリエーションの場として生まれ変わったのです。砂防工事がされなかったらこのような施設もなく、川沿いの土地を有効に利用できなかったでしょう。 「砂防なければ日光なし」(初代日光市長 佐々木耕郎氏の言葉) 栃木県日光市 国土交通省日光砂防事務所 砂防関係者の聖地ですね。 ■顕彰碑 碑文・・・ ●日光の河川は、古くは天長4年(824)、天文年中(1532-1534)、寛文2年(1662)近くは明治35年の大洪水など、しばしば洪水の土石流による大災害をもたらし、その都度沿岸住民は多数の死者を出し家屋、田畑、橋梁を流失するなど甚大な被害を蒙ってまいりました。水源の荒廃、河岸の崩壊は放置しがたい状況となり、元禄以降いくたびかその対策が講じられましたが、特に大正7年8月21日稲荷川第一堰堤の着工以来、政府・県の砂防対策はとみに厚きを加え、関係者歴年の御努力のもと、堰堤工、床固工、山腹工、護岸工、流路工、洪水調節施設など近代土木技術の粋を駆使した施工を累ね日光の河川は今日見る通りの近代河川に生まれ変わり沿岸の開発も可能となったのであります。けだし沿岸の浴する恩恵は計り知れぬものがあります。よってわれわれは、国土の大水源としての日光の治水砂防事業の重要性を再認識してその百年の大計の貫徹を期するとともに、往年の洪水犠牲者ならびに砂防工事施工殉職者に慰霊の誠を捧げ、日光砂防事業関係者多年の労苦に感謝してその御功績を顕彰するため、ここに大谷川産の名石をえらんで砂防塔を建立するものであります。 |
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