■案内板・・・ ●谷中村について 谷中村は1889年(明治22年)、下宮村、恵下野村、内野村の三村が合併して出来た村で、栃木県の最南部に位置し、渡良瀬川、巴波川、思川に囲まれた洪水常襲地帯であった。反面、肥沃な土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としない程の沃田とも言われた。しかし、1877年(明治10年)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20年)以降には足尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡良瀬川沿川の広範囲に及んだ。谷中村も例外でなく農作物の立ち枯れや魚の幣死等被害は想像を絶するものがあった。このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京請願し、1900年(明治33年)の川俣事件、翌1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなった。被害民の足尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡台地を開削し渡良瀬川を赤麻沼に流下させる。)と遊水地設置の政策を決定した。谷中村はその大半が遊水地となることより、買収は1906年(明治39年)から着手され、それに応じた者は他他へ集団移住を開始し、同1906年7月(明治39年)谷中村は藤岡町に合併させられて法律的に村は抹殺され、事実上の廃村となった。 |
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■説明板・・・ ●谷中村について 谷中村は1889年(明治22年)、下宮村、恵下野村、内野村の三村が合併して出来た村で、栃木県の最南部に位置し、渡良瀬川、巴波川、思川に囲まれた洪水常襲地帯であった。反面、肥沃な土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としない程の沃田とも言われた。しかし、1877年(明治10年)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20年)以降には足尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡良瀬川沿川の広範囲に及んだ。谷中村も例外でなく農作物の立ち枯れや魚の幣死等被害は想像を絶するものがあった。このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京請願し、1900年(明治33年)の川俣事件、翌1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなった。被害民の足尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡台地を開削し渡良瀬川を赤麻沼に流下させる。)と遊水地設置の政策を決定した。谷中村はその大半が遊水地となることより、買収は1906年(明治39年)から着手され、それに応じた者は他他へ集団移住を開始し、同1906年7月(明治39年)谷中村は藤岡町に合併させられて法律的に村は抹殺され、事実上の廃村となった。 |
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■説明板・・・
●谷中村遺跡、延命院共同墓地
延命院は室町時代に谷中村古河に創立された寺院であり、共同墓地の墓石は江戸時代初期より連綿と存在する。谷中村は五穀豊穣の地として栄えていたが、足尾鉱毒事件により、この延命院もまた強制買収され廃寺となり、いまわずかに墓石を残すのみとなる。田中正造翁が谷中村に入って6年明治43年4月1日の日記の一部に谷中村事件を次のように記している。「谷中と銅山の戦いなり官権これに加わりて銅山を助く、人民死を以って守る何を守る憲法を守り自治の権を守り祖先を守りここに死をもって守る」と主張した。この地は昭和47年谷中湖造成計画に入っていたが、公害闘争の原点であり、谷中村事件の唯一の生き証人として残すべきと谷中村の遺跡を守る会の陳情運動により保存されたものです。
谷中村の遺跡を守る会 |
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