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むかしの上久我村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
上久我村
古くは下久我村と一村。「日光山常行三昧堂新造大過去帳」には「久賀郷」とあって宇都宮忠綱が日光山に寄進している。元和6年(1620)徳川秀忠は久加村の内320石余を日光山に寄進している。嘉永6年(1853)、家数158軒・人数770人馬69疋・反別一一八町四反余とある。村には修験道の霊場石裂山(加蘇山神社)がある。山頂に摂社の月山社(祭神月読命)がある。社伝によると開基は勝道上人といわれる。「日本三代実録」元慶2年(878)によると、下野国加蘇山神に従五位下がさずけられている。江戸時代には御師が5人いた、と記録にある。
上久我村の概要
大芦川の支流である荒井川の上流域に位置する村で、荒井川は村の中央を北西から南東へ流れる。下流は下久我村で、もとは一村であった。近世期を通じて都賀郡に属し、現鹿沼市域の西部にあたる。元和6年(1620)、「久加村」の一部は草久村とともに日光山へ寄進された。「慶安郷帳」には二筆の久賀村があらわれるが、そのうち日光領分にあたるのが当村と考えられている。これによれば田43石余、畑306石余であった。「元禄郷帳」では827石余、日光領とあり、以降は村高、所領に変化なく明治に至った。近世後期には村内の山中に炭竃が13あり、石裂山の社家をはじめとする13人が所有した。報徳仕法が実施され、木曽檜の植え付け、荒地の起き返しを目的とする用水開削がおこなわれた。寺院には正泉寺があり、明治初年に廃寺となった。現在の加蘇山神社は近世期には石裂大権現と称し、農耕、火伏せの神として信仰され、主に関東地方東部から福島県にいたる地域から参詣者を迎えていた。
参考
慶安郷帳 1648年 元禄郷帳 1701年 天保郷帳 1834年
摂社
せっしゃ、本社と末社とのあいだに位し,本社の祭神とかかわりをもつ神などを祭る神社をさす。
御師
おし、伊勢神宮では「おんし」という。主として神社と信者のあいだを仲介する下級の神職。御師の語は御祈祷師から出たといわれるが,もと仏教者のあいだで使われたことばで,師檀関係をむすんだ人が師に敬称をつけた。 |
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