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庭園内には全国から集められた奇石や灯篭が配され、泉池や古木群と共に、深山幽谷の赴や、野鳥の集う四季折々の風情を見せている。造園にあたっては、家主自ら全国に赴き、樹木や庭石、碑塔類を選定したことからも、苦労と庭園にかけた情熱が伺い知れる。 |
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現在は、市が買収し、造営当時の意匠を残しつつ改修整備した。
掬翠園の名称は、長谷川氏と親交のあった中村不折氏(洋画家、日本画家、書家として知られる芸術家)が造園主の意匠と庭園の趣を感じとり命名したものであり、慶雲郷の玄関に中村氏直筆の額が飾られている。
「掬翠(きくすい)」とは「翠」みどりを「掬」くみとるという意味。
また、園内には「慶雲郷(けいうんきょう)」と「観涛居(かんとうきょ)」と呼ばれる建物があり、いずれも有料の貸出施設となっており、茶道、華道を始め、様々な文化活動に利用されている。 |
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当時は、川上澄生(版画家)や濱田庄司(陶芸家)をはじめ、その他多くの文化人が訪れており、「慶雲郷」内の襖や板戸に描かれた美術品からも当時の鹿沼文化の栄華が偲ばれる。
故唯一郎氏は、川上澄生美術館の名誉館長である長谷川勝三郎氏の父であるが、そのつながりは、澄生が宇都宮中学校(現宇都宮高等学校)の英語の教師だったころ、勝三郎が澄生の教え子であったことに起因する。
また、長谷川唯一郎氏の娘で、勝三郎の姉でもある長谷川宗召(そうしょう)は、当時、県下唯一といわれた宗偏流最高位の正教授であったため、この掬翠園には宗偏流の宗家がたびたび訪れたといわれ、茶会や茶道教室も頻繁に開かれ、市内外より多くの人達が集い現在も広く引き継がれている。 |
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「慶雲郷」
辞書によると、「慶雲(けいうん)」とは”めでたい事の起こる前兆の雲”とされることから、木々の隙間からのぞく雲に幸福と繁栄を期して命名されたと推察される。
鹿沼の土と藁を壁に塗り、鹿沼の木を使って整備した。
建物の延べ床面積約210uのうち107uについては既存の建物を改修したものであり、襖や板戸には当時訪れた芸術家たちにより描かれた美術品が残されているものを、そのまま展示しており、史料館的な役割を果たしている。
ここには、るり堂と呼ばれるお堂が併設しており、これは、1766年ごろ小来川に建築されたものが寂れていたので、故唯一郎氏がここに移築したものである。
また、新設の約103uについては各種展示会に使用する他、茶道、華道等の文化的活動ができる多目的な機能をもった有料の貸出施設となっている。 |
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↓るり堂 |
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「観涛居」
数奇屋づくりの建物で、四畳半勝手の本格的茶室を持つ。
玄関のたたきには、刀の鍔が塗り込まれている。
建物の南側戸袋に使われている板は、当時漁船に使われていた舟板であり、当時は建物全体の外板に使われていたものを、改修時にその一部を残したものである。
長谷川宗召が頻繁に茶道教室を開いていた経緯を生かし、本格的な茶会を始めとして、茶道教室等に利用できる有料の貸出施設となっている。 |
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↓慶雲郷 |
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↓観光物産館 |
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24.11.30 芭蕉の句碑は右下 |
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