21.2.21
■説明板・・・
●富島弁財天神社の祭典と尼層墓石の供養に就いて
昭和46年4月、文化橋町富島弁財天神社の祭典を迎えるに当り、この弁天様の鳥居の横に、永い間風雪に晒され、やや斜めに傾いた尼層の墓石と思われる丸い石が、人目につかずひっそりと有るのをお気付き方もあると存じます。この墓石が、何か弁天様と由縁の有るものかどうか?と云う事で、昨年のお祭り時に話題となりましたので、郷土研究家として高名な長谷川黙念先生に調査を依頼致してありましたところ、此の度調査報告書が届きました。
報告書は次の通りで有りますが、弁天様のお祭りは毎年4月の第三日曜日に行われることになって居りますが、今年は4月18日で、午前10時より宮司を迎えて式典を行い、11時より尼層墓の供養を盛大にとり行います。御町内の皆様方にはお誘い合って御参詣下さいますようお願い申し上げます。
●調査報告書 長谷川黙念
富島弁財天神社の由来と尼層墓石を語る。
昔々、野州下野国に鹿沼宿と云う奥州、日光へ通ずる主要なる宿場が有って、日光山造営の折、宮大工や彫刻手等の憩いの場所として中々繁栄をきわめた宿場であった。これが鹿沼市の前々身である。今私達の住んでいる文化橋町辺は「六分ガ原」と云って、広々とした野原であって、丁度原木工所さんの建って居る処に大きな堀があり、この堀を「巻島堀」と云った。この堀は、大正初年の頃まで残って居り、60才以上の老人ならば少年の頃良く魚とりなどをした想いでの場所である。その頃の鹿沼宿には現在よりも多くの寺や、尼の住んでいた院があった事は、古老達によって語り伝えられて来た。
鹿沼には「三弁天」と称して、三ケ所の弁天宮があって、これを守ったのは何れも尼さん達であったことは勿論である。今日、文化橋の弁天さんの正面にある一つの尼さんの墓石も、原木工所前の川底から発見されたことから見て、巻島堀にあった弁天宮を守った尼さんであることに相違ないのであるが、文字が磨滅して読み取れないのが残念であるが、「宝永六年」と云う年号から推定すると、今より262年前に当たり、江戸中期の人と相成ります。
富島弁財天の由来であるが、明治3年の大水の時に、お堂が流出し御神体だけになったので、土地の旧家であった巻島家にて、自分の屋敷内のお堂に安置してお守りして来たのを大正13年、臼井助三郎さんを代表とする町内の有志の方々が、浄財を集めて巻島家より御神体を譲り受け現住所に建立したものである。(巻島家は上田町の井上三平さんのところにあった)富島弁財天は文化橋町住民の氏神様でありまして、願い事は何でも叶えられるといわれて居ります。
戦争中武運長久を祈願して出征した男達は皆、無事に凱旋し、文化橋町は戦死者がまったくと云った程少なかった。その他いろいろの話は語りつきない程多い。「家内安全」「商売繁盛」「交通安全」「縁結び」「火防」等々何でもお願いして下さい。毎月1回は、お詣りしましょう。
文化橋町自治会 |