かぬま郷土史散歩 柳田芳男 著 参考
「千手山」として市民に親しまれ、また、下野三十一番の札所でもある紫雲山千手院の創建は天文四年(1535)といわれ、本尊千手観音像は鹿沼の城主壬生上総介義雄の篤信により板荷観音原から移されたもので、日光中禅寺立木観音、同清滝寺と一本をもって彫られたものという伝承がある。
また、「二荒山神社」によると。仁治元年(1240)に押原千手堂の記録があり、これが千手院であるならば、千手院の創建は更に時代を遡ることになる。千手院の参道入口右側に「紫雲山千手くハんをん道」という高さ約1.9メートルの大きな河原石の道標がある。これは上材木町大通の宝蔵寺 入口右側にあったものを、数年前に移したものである。短い桜並木の参道を行くと石段つきあたる。
右側に「千手観音」の解説表示板がある。五三段の石段を上ると仁王門。仁王は享保十七年(1732)に建立されたことは、山門左前にある「当山仁王建立」の石碑により知ることができる。仁王の裏側には天部の像がある。右手に地蔵堂、宝篋印塔と続くが、印塔は宝暦五年(1755)の建立、かつて台風の際倒壊し、中から経石が出たという。高さ約4.3メートル。本堂は南面し、三間・三間の方形造り。
■説明板・・・
●千手山公園文化財群(せんじゅさんぶんかざいぐん)について
○千手院の由来
千手山公園内のここ千手院は、天文4年(1535)の創建で、千手観音堂に安置される本尊千手観音坐像は、鹿沼城の最後の城主である壬生上総介義雄の篤信により、板荷の観音原から移されたものであるとの伝承があります。また、日光二荒山神社の記録によると、仁治元年(1240)に押原千手堂の記事がみられ、これが千手院であるならば、千手院の創建はさらに古いものであると考えられます。
○仁王門
朱塗りの仁王門正面の仁王像は、寄木造り、目は玉眼、肉身部は朱塗りであり、仁王門南西側にある「當山仁王建立」の石碑により、江戸時代の享保17年(1732)に建立されたことがわかります。(仁王像体内に享保16年の墨書銘がみられます。)仁王像は、伽藍を仏敵から守る守護神として安置され、一体は口を開き、一体は口を閉じた姿で表されます。前者の阿形(あぎょう)を「金剛像」、後者の吽形(うんぎょう)を「力士像」などといいます。また、仁王門背面西側にある守護神で、手に宝塔を載せている像を「多聞天(たもんてん)」、東側の剣を持っている像を「増長天(ぞうちょうてん)」といいます。これらは、仁王像と同様、寄木造り、玉眼で、彩色が施されています。なお、この両像のほか「広目天(こうもくてん)と持国天(じこくてん)」=千手院にはありません=を合わせて「四天王」と呼ばれています。また、天井には、前側が、郷土画家の「桜井如雲(さくらいじょうん)」、裏側も同じく郷土画家の「慶掌(けいしょう)」の筆により「龍の図」が描かれています。
○千手観音堂
三間四面の方形造りで、南側の向拝軒下の「龍」の彫刻底部に「享保11年(1726)の墨書銘があり、また、本堂軒下の 蟇股(かえるまた)の彫刻は「二十四孝」=中国で古来有名な二十四の孝行な子供の話=で、その一枚の裏側に、向拝の「龍」と同様「享保11年(1726)の墨書銘があります。それらの彫刻は、田野辺村(現市貝町)の石原弥兵衛などの手によって彫られています。・・・以下省略・・・
鹿沼市・鹿沼市教育委員会
撮影18.4.25 |