■説明板・・・
●背山橋(はいざんばし)
本名高塩正庸、背山はその号である。背山は明治15年喜連川横町に生まれる。高塩家は永禄6年(1563)より喜連川神社に奉仕する由緒ある神職の家である。長じて群馬県立前橋中学校に入学したが同校5年病にて止むなく退学郷里に引きこもり生涯を殆んどこの町で過ごした。24歳頃より歌の創作を手がけられ投稿によって才能ある多くの青年歌人を知った。若山牧水もその一人である。高塩家は8人の子どもを抱え恵まれない家庭経済の中にあってよく忍従、短歌を詠むことに生甲斐を求めたのである。”貧しとて 飯に替ふべき 歌ならね 歌はでをれば 死ぬるここちす”歌人背山の面目躍如たる一詩である。先達の偉業を讃えると共にその行跡を永久に残すべくこの橋を「背山橋」と名付けたのである。
昭和60年度喜連川商工会むらおこし事業 |