■説明板・・・
●推定 東山道跡(とうざんどうあと)北台遺跡(きただいいせき)
今から約1300年前の律令国家の時代に、中央(都)と地方を強く結びつけるため奈良の平城京(へいじょうきょう)を中心として七つの幹線道路「東海道(とうかいどう)・東山道(とうざんどう)・北陸道(ほくりくどう)・山陽道(さんようどう)・山陰道(さんいんどう)・南海道(なんかいどう)・西海道(さいかいどう)」が整備されました。
下野(しもつけ)国内を通っていた東山道は、都から近江(おうみ:滋賀県)・美濃(みの)・飛騨(ひだ:岐阜県)・信濃(しなの:長野県)・上野(こうづけ:群馬県)・武蔵(むさし:東京都・埼玉県)の諸国を経て下野国に入り、ここから陸奥(むつ:東北地方)へ向かっていました。中央から東国や陸奥に派遣される役人や兵士、東国から北九州の警備のために派遣された防人(さきもり)と呼ばれる人たちもこの道を通っていました。これらの駅路(えきろ)と呼ばれる官道には、30里(約16km)ごとに駅家(うまや)が置かれ、東山道の駅家には10頭の駅馬(はゆま)が用意されていました。
平安時代に記された「延喜式(えんぎしき)」によると、下野国内には足利・三鴨(みかも)・田部(たべ)・衣川(きぬがわ)・新田(にいた)・磐上(いわかみ)・黒川(くろかわ)の七つの駅家が設けられていたことがわかります。この場所(北台遺跡)からは、区画整理事業の際に両側の側溝をもつ道路が確認されています。側溝間の幅は12.3mで道幅はおよそ10.5mの道路跡です。
当時の路面は残っていませんでしたが、側溝の土の堆積状況から二時期の変遷が認められ、側溝から出土した土器の破片から、西暦700年代の初め頃につくられたと考えられています。以前より下野国府(しもつけこくふ)から下野国分寺(しもつけこくぶんじ)・尼寺(あまでら)付近を通って、下野薬師寺方面に東山道がのびていると考えられていました。また近年、県内でも10数個所の推定東山道跡が確認されており、当遺跡もその位置と道路の規模から東山道跡と推定されています。 |