・・・・・壬生町の風景・・・・・
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親抱きの松周辺03
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田園風景藤井01・・・田園風景藤井02・・・馬場不動尊・雨引山延命観世音
■説明板・・・
●親抱きの松(伝説)(おやだきのまつ:でんせつ)
南北朝の時代(※時代区分の一つ。皇統が南朝と北朝に分裂抗争した延元1=建武3 (1336) 年から両朝が合一した元中9=明徳3 (92) 年までの 57年間をいう。)、南条左衛門正春という武士がいました。
正春は宇都宮氏の軍勢に加わり、各地で戦いましたが、運悪く戦死してしまいました。京に住む正春の妻登美留は、夫の悲報に悲しみ、宇都宮氏に預けられていた娘の小桜を慕い旅にたちましたが、ここ稲葉の地で旅に疲れ亡くなりました。小桜は、この地で日夜母の霊を供養しましたが、小桜も病にかかり帰らぬ人となりました。
村人達は、この母子をあわれんで、墓に二本の松を植え墓標としました。いつしか二本の松は、相いだくようになり人々から、「親抱きの松」と呼ばれるようになりました。
昔、この地を訪れた忠臣蔵で有名な吉良上野介が、この悲しい物語を聞き、「心なき人に見せばや下野の稲葉の里の親抱きの松」とよんだと伝えられており、傍らの石碑に旅人の歌とともに刻まれています。
昭和62年3月 壬生町教育委員会