■説明板・・・
●真岡城と高札場 芳賀氏の誉れと真岡城の街整備
第12代芳賀高親は文治5年(1189)、源頼朝に従い奥州に出陣し、阿津賀志山の戦いで益子の紀の権の守と共に手柄を立てた。帰国してまもなく、五行川の東(真岡東中学校)「御前城」を建て、館(やかた)とした。南北朝時代(1331〜)、第14代芳賀高名公は足利尊氏に従い本州各地に転戦して活躍した。その子、第15代芳賀高貞の時に真岡の高台(真岡小学校)に「真岡城」築き御前城から移ったと伝えられている。城下町もしだいに発展し、江戸時代には荒町・田町・台町の町割り整備が進んだ。
●高札場
掟・条目・禁制などを板に書いて、市場・町辻・追分・橋詰め・河岸(かし)・渡し場などの人目につく場所に掲げたもの。法を素早く知らせるために作られた告知板である。真岡城下にも各所に存在し、城近くでは田町の辻北(般若寺表参道南付近)に存在したが明治6年(1873)撤廃された。真岡市夏祭町会連合会は、平成16年10月10日に、市制50年記念「真岡夢時代まつり」を挙行し、「御前城」から「真岡城」への遷移の様子を全市民をあげて「時代絵巻」として再現した。これは真岡市の原点が真岡城の築城により発展した城下町であることの確認でもある。
平成17年4月29日 昭和の日
真岡城顕彰会・真岡市夏祭町会連合会・真組・真若・町会若・監修芳賀の歴史を語る会 |