・・・・・西方町(栃木市)の風景・・・・・ |
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実相寺周辺 |
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■説明板・・・
●県指定有形文化財 木造出山釈迦像 昭和45年9月1日指定
釈迦は29歳の時、妻子を捨て、出家し山林にこもって心の迷いを去って、真理を体得しました。また苦悩から解放されて絶対自由の境地に達しようと苦行に専念しましたが、6年間も続けたにも、そのむなしさを知り山を出て川のほとりの菩提樹の下に座をえらび懸命の思索精進を続けた結果、遂に真理を体得しました。山での苦行は激烈をきわめ、力は尽き身体はやせ細り意識も失って川のほとりに向かう姿を表現したのが「出山釈迦像」です。わが国では室町時代から禅僧などにより絵画には描かれましたが彫像で表現されるようになったのは江戸時代からです。この像は目は深くくぼみ頬は落ち肋骨がすけて見えるほど痛ましくやせ細った体を一本の杖に支えている姿です。寄木造り・玉眼入・像高120センチの大きさで全体の部分の比例もよく、細部の省略もなく誠実に故事を表現した作品であり、きわめて数少ない出山釈迦の彫像として貴重です。
昭和59年9月19日
西方村教育委員会 西方村文化財保護委員会(※当時の説明板です。) |
■説明板・・・
●西方町指定有形文化財 西方城主後衛(こうえい)の墓所
西方遠江守景泰(とおとおみかげやす)は、永仁元年(1293)に宇都宮氏から分家して城を築き初代西方城主となった。爾来、足利氏旗下として、宗泰(むねやす)、綱泰(つなやす)、綱貞(つなさだ)、綱朝(つなとも)と続き6代目から西方太郎左衛門尉(さえもんのじょう)を名乗るようになった。6代目西方太郎左衛門尉綱定は、佐野唐沢城主や皆川山城主広照と数回激しい戦いを交えた。その一方、永禄年間に当山那智山実相寺を興した。7代目西方太郎左衛門尉綱吉(つなよし)は織田信長に仕えたが、その生害後は上杉景勝についたため、天正15年(1587)に落城の憂目(うきめ)を見る。ここに初代以来、290余年を以って城主の座を追われた。8代目西方太郎左衛門尉綱清(つなきよ)と養子の9代目西方太郎左衛門景英(かげひで)は、これまでの由緒を以て扶助される。10代目西方太郎左衛門尉景高(かげたか)の母は8代綱清の娘で、父は輝定の家臣遠藤六郎左衛門で、その次男としてうまれ綱清の養子となる。綱清の死以前に高崎城を出て牢人となり、西方の当寺に住むが正徳元年(1771)武芸修行のため江戸に出て野沢新助と改名する。しかし、修行半ば20才の正徳4年(1774)に西方郷阿久津勝右衛門の必死の看病も空しく江戸で病死してしまう。勝右衛門が当時に石塔、墓を建立したものである。10代目以降子孫、係累なく断絶となるは是非なきものである。
出典「西方記」 西方町教育委員会 |
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