■説明板・・・
●千手山公園文化財群(せんじゅさんぶんかざいぐん)について
○千手院の由来
千手山公園内のここ千手院は、天文4年(1535)の創建で、千手観音堂に安置される本尊千手観音坐像は、鹿沼城の最後の城主である壬生上総介義雄の篤信により、板荷の観音原から移されたものであるとの伝承があります。また、日光二荒山神社の記録によると、仁治元年(1240)に押原千手堂の記事がみられ、これが千手院であるならば、千手院の創建はさらに古いものであると考えられます。
○仁王門
朱塗りの仁王門正面の仁王像は、寄木造り、目は玉眼、肉身部は朱塗りであり、仁王門南西側にある「當山仁王建立」の石碑により、江戸時代の享保17年(1732)に建立されたことがわかります。(仁王像体内に享保16年の墨書銘がみられます。)仁王像は、伽藍を仏敵から守る守護神として安置され、一体は口を開き、一体は口を閉じた姿で表されます。前者の阿形(あぎょう)を「金剛像」、後者の吽形(うんぎょう)を「力士像」などといいます。また、仁王門背面西側にある守護神で、手に宝塔を載せている像を「多聞天(たもんてん)」、東側の剣を持っている像を「増長天(ぞうちょうてん)」といいます。これらは、仁王像と同様、寄木造り、玉眼で、彩色が施されています。なお、この両像のほか「広目天(こうもくてん)と持国天(じこくてん)」=千手院にはありません=を合わせて「四天王」と呼ばれています。また、天井には、前側が、郷土画家の「桜井如雲(さくらいじょうん)」、裏側も同じく郷土画家の「慶掌(けいしょう)」の筆により「龍の図」が描かれています。
○千手観音堂
三間四面の方形造りで、南側の向拝軒下の「龍」の彫刻底部に「享保11年(1726)の墨書銘があり、また、本堂軒下の 蟇股(かえるまた)の彫刻は「二十四孝」=中国で古来有名な二十四の孝行な子供の話=で、その一枚の裏側に、向拝の「龍」と同様「享保11年(1726)の墨書銘があります。それらの彫刻は、田野辺村(現市貝町)の石原弥兵衛などの手によって彫られています。・・・以下省略・・・
鹿沼市・鹿沼市教育委員会 |