・・・・・足利の風景・・・・・
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織姫公園
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■説明板・・・
●両崖山(りょうがいさん)城跡
◎前期古城
平安時代、天喜2年(1054)藤原秀郷(ひでさと)の子孫、伊勢崎淵名城主藤原成行(しげゆき)が足利に入部、両崖山に築城したと伝えられます。以来、130年間足利地方を治めました。丁度その頃、奥州に乱が起こり、天喜4年、源頼義(よりよし)、義家(よしいえ)父子が平定に出発しました。源氏の軍勢は、足利浅間山の南麓を中継基地としました。これがもととなり、源姓足利氏が発生したのです。
藤原成行の足利進出は、この源氏の面倒を見るためだったとも考えられるかも知れません。
治承4年(1180)源平合戦が始まると、源姓足利市の棟梁源義兼(よしかね)は挙兵、頼朝の側近として活躍しました。義兼は頼朝と同じ八幡太郎義家4代の後裔で、母方の従兄弟でした。

両崖山の藤姓足利氏は立場上、時の政権の平氏に従っていました。源平合戦の時、両崖山城主藤原俊綱の嫡男、足利又太郎忠綱は、京警護のため、平家の軍勢の中におりました。
源三位源頼政の軍善と平家の軍勢が宇治川で合戦となりました。この時、足利忠綱は17才でしたが、藤原足利氏を率いて宇治川を渡る一番乗りの功名を立てました。この様子は「平家物語」に橋合戦として詳しく書かれて、世に広く知らせています。
両崖山の藤姓足利氏は中立を守ろうとしましたが許されず、治承5年9月、三浦義茂率いる源氏の軍勢が渡良瀬川まで押し寄せてきました。総攻撃の前日、城主藤原俊綱(60才)の首が源氏の本陣に届けられ、攻撃は中止されました。「吾妻鏡」には、家来の桐生六郎に謀殺されたと書かれています。しかし、城主俊綱が自分の首一つで戦いを回避したとも考えられます。藤姓足利氏は消滅し、足利地方は、源姓足利氏に統一され治められました。

◎後期古城
戦国時代、足利は古河の公方軍と上野の上杉軍の戦場となりました。
文正(ぶんしょう)元年(1466)上杉方の武将、長尾景人が代官として足利に入部、岩井山に観農城を築きました。足利長尾三代政長が両崖山城に移り、再建しました。両崖山で戦いが行われたことはありませんでしたが、堅固な城砦として両毛地方に睨みを効かしました。戦国末期、関東は小田原北条氏の支配下となり、北条氏が豊臣氏に滅ぼされると、足利長尾も滅亡しました。
↓渡良瀬川に架かる緑橋