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   二宮 27.4.4    41
専修寺(せんじゅじ)
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史跡専修寺(せんじゅじ)境内
親鸞は承元元年(1207)法難にあって越後国に配流されたが、5年ののち罪を許されて関東に入り常陸国稲田に滞在布教の為この地に巡錫されたとき、大内氏一族の懇請によって一宇が作られたのが専修寺の始まりと伝えられている。信州善光寺感得の一光三尊仏を本尊とし、のち真仏(二代)さらに顕智(三代)にうけつがれ、東国における初期真宗教団の根本道場として隆盛をみるに至った。寛正6年(1465)真慧(十代)は、伊勢一身田に専修寺をつくり本山としたので、以来この土地は下野国旧本山と称されるようになった。御影堂如来堂等その大半は江戸時代の再建にかかるものである。後堀河天皇(第八十六代)勅願所としても世に知られている。
【専修寺パンフ】
親鸞聖人は、42歳ごろから約20年間、関東各地を行脚して専修念仏を弘められました。わが下野国高田の地へ来られたのは、聖人53歳のときであったと申します。そしてこの地に多くの門弟が生まれ、それらの人々の懇望によって、ここに一堂を建立し、長野の善光寺から一光三尊仏をお迎えして、本尊とせられました。これが専修寺の草創です。
当寺を中心とした門弟は「高田門徒」と呼ばれ、真宗最大の教団でしたが、戦国時代に兵火によって焼失するなどの事があって衰退し、教団の中心は伊勢国一身田へ移ってしまいました。江戸時代になってようやく復興したのが現在見る姿で、高田派ではここを「本寺」と呼んで尊んでいます。国からは「親鸞聖人の宗教遺跡」として、史跡に指定されると共に、諸堂宇も国の重要文化財に指定されています。
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