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●藤岡町の風景      現 栃木県栃木市藤岡町         

渡良瀬遊水地風景 1  大きい写真は谷中村雷電神社跡

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20.3.25  晴れ
■説明板・・・
●渡良瀬貯水池
◎渡良瀬貯水池の大きさ
▲広さ(面積) 約4.5平方キロメートル※東京ドームの約100倍の広さです。
▲ためられる水の量(総貯水量)2,640万立方メートル※サンシャイン60を1マスにすると約35ハイぶんになります。
▲外まわりの長さ(外周距離)約9.2km※1周200mのトラックを46周したのと同じ長さです。
◎渡良瀬貯水池のはたらき
・洪水の被害から守ってくれます。(洪水調節)
大雨がふると川などの水があふれ家や田畑に水がつかり大変な被害を受けます。渡良瀬貯水池は渡良瀬遊水地内にある3つの調節池といっしょに川の水を一時貯めて、下流へ流れていく水の量を少なくして洪水から私たちを守ってくれます。
・毎日使う水を確保してくれます。(新規都市用水の確保)
毎日の生活にたくさんの水が使われています。小山市、野木町、茨城県、千葉県、埼玉県、東京都の人達のために、新たに216,000立方メートル/日(2.5立方メートル/秒)の水道水を送ります。
・川のきれいな流れを保ちます。(流水の正常な機能と維持と増進)
日照りが続くと川の水が少なくなり、川の水を利用している農作物や川に住む魚などが影響を受けます。このようなことを防ぐため、貯水池に貯めてある水を流して、いつも川には水が流れるようにします。
川を大切にきれいにしましょう。
国土交通省利根川上流河川事務所
■案内板・・・
●谷中村について
谷中村は1889年(明治22年)、下宮村、恵下野村、内野村の三村が合併して出来た村で、栃木県の最南部に位置し、渡良瀬川、巴波川、思川に囲まれた洪水常襲地帯であった。反面、肥沃な土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としない程の沃田とも言われた。しかし、1877年(明治10年)頃から渡良瀬川上流の足尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20年)以降には足尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡良瀬川沿川の広範囲に及んだ。谷中村も例外でなく農作物の立ち枯れや魚の幣死等被害は想像を絶するものがあった。このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京請願し、1900年(明治33年)の川俣事件、翌1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなった。被害民の足尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡台地を開削し渡良瀬川を赤麻沼に流下させる。)と遊水地設置の政策を決定した。谷中村はその大半が遊水地となることより、買収は1906年(明治39年)から着手され、それに応じた者は他他へ集団移住を開始し、同1906年7月(明治39年)谷中村は藤岡町に合併させられて法律的に村は抹殺され、事実上の廃村となった。
■説明板・・・
●遺跡谷中村
谷中村は、その昔下宮村、内野村、恵下野村、三村が合併して谷中村となった。
谷中村の歴史は、古く室町時代(1407)頃既に開けた赤麻沼畔の豊かな村であった。その後古河藩(茨城県)によって開墾が奨められ画期的な発展を遂げた。
谷中村は古来、地味肥沃魚介類の棲息も多く自然に恵まれた穀類豊穣の平和な農村として繁栄を続けた。
明治18年頃より、足尾銅山から流出する鉱毒が渡良瀬川を汚染し、谷中村附近一帯の地域をも毒害するに及んだ。全村がその被害により年を追って毒中に埋没し、悲惨な死の沼と化した。
爾来30年に亘り谷中村民は田中正造翁を先頭に足尾銅山の鉱毒との闘いを続けた。
明治37年12月10日栃木県議会は堤防修築と言う名の許に谷中村買収案を強行議決した。
買収金額 金48万円也
▲堤内 970町歩 ▲堤外 230町歩 ▲戸数 387戸 ▲人口 2500余人
明治39年7月1日栃木県当局は谷中村議会の反対決議を無視し谷中村を藤岡町に合併せしめたる16戸の住民家屋を強制破壊し住民100余人は雨露に晒されることとなった。
大正6年2月限り残留民は各町村に移住し田中霊祠は藤岡町に遷宮した。谷中村は名実共に滅亡した。
谷中村遺跡を守る会
※地味⇒滋味