■案内板・・・
五行川の姿と恵み
●五行川の姿
さくら市氏家町長久保天神神社前を源流とし、高根沢町・芳賀町・真岡市を流れ、筑西市下館で小貝川に至る利根川水系の川です。全長は53.7km、流域面積は279kuあります。
●五行川の名称・・・
上流部は鬼怒川の伏流水が長久保で湧き出します。かつて鬼怒川が東流して広げた沖積地を南下し、井沼川・冷子川・大沼川・野元川を合わせた五つの川から五行川と称されるとも言われます。「五行」とは中国根本思想である「陰陽五行説」を言い、東西南北と中央の方位と春夏秋冬と土用の季節を表す「木・火・土・金・水」の五つの働きの元を表すことから、四季の変化と恵みに溢れることに因み「五行川」と称されました。又、平将門が935年に合戦勝利の祈願を大前神社にかけ、御手洗(みたらし)大前堰で行ったことから、下流域を勤行川(ごんぎょうがわ)と称されます。
●五行川の恵み・・・
五行川は全域にわたって広い水田を潤し、栃木県内きっての穀倉地帯を形成しています。お米を中心に、冬期は麦と全国一のイチゴ栽培の中心地を形成しています。
●五行川流域の主な用水整備の歴史・・・
▲市の堀用水・・・
鬼怒川の塩谷町佐貫頭首工から取水し、さくら市氏家町から高根沢東部・芳賀町・真岡市に至る延長42kmの水田の水源用水路です。当初は、正保3年(1646)から明暦2年(1656)までの10年を要し、延べ10万人を越える人力で完成したものです。特に奥平織部と山崎半蔵氏の功績は顕著です。現存の用水は、昭和37年(1962)に完成したものです。
▲穴川用水・・・
二宮尊徳先生の遺跡である大前神社東の大前堰を基点とし、二宮町物部地区を経て、筑西市奥田で小貝川に流れます。古来あった大前堰(元禄絵図記載)を二宮先生が文政10年(1827)に着工しました。現存の姿は昭和38年に完成したものです。
●太平洋からの使者・鮭たち・・・
五行川は太平洋の千葉県銚子港から利根川を上がり、茨城県利根町で小貝川に分かれ、筑西市から五行川にいたります。平成15年秋に大前堰までの150kmに及ぶ長い水流を遡って親鮭が帰ってきました。市民組織NPO法人鮭守の会が結成され、真岡市を始め真岡土木事務所・真岡警察署などの支援を受け、親鮭の特別採捕から、授精作業、孵化・育成活動を行い、毎年3月第1日曜日に放流式と五行川鮭っ子壮行会を開催しています。4年後太平洋の海原で育った鮭たちが母なる川に再び姿を現します。五行川流域の私たちに勇気と希望を伝える大切な使者なのです。
●大前堰の伝承・・・
▲大前堰の人柱・・・
大前神社の参道に平行して南流する五行川は、流域の農地に灌漑用水を提供する大切な存在です。むかし大前堰はたびたび流され、ここに頼る村人たちは困り果てていました。そこへセキという名の女性が神に祈願をし、五行川に身を投げて人柱となりました。その後、大前堰は流されなくなりました。そのセキの霊を祀ったのが大前権現だといわれています。またこの堰を「乳垂の堰」といい、川上から流れてきて、この堰にひっかかった野菜を産婦に食べさせると、母乳がよく出るようになったといいます。
▲大前さんの鯉・・・むかしから五行川のコイは釣ってはならないとされてきました。ある時、下館藩の侍が、魚屋で買い求めたコイを家に持って帰り、料理をしようとそのコイに包丁を入れたところ、血が流れ出て「大前権現様」という文字になりました。さては知らぬこととはいえ、神境のコイであったかと、その侍は権現様にお詫びするために大前神社を訪ね、神官と共に拝礼しました。それから毎年、その侍は参拝を欠かさなかったといいます。
■関東ふれあいの道
雲流れる桜花のみち
関東ふれあいの道「雲流れる桜花のみち」は真岡駅から益子駅に至る14.2キロメートルのコースであります。
当コースは、五行川サイクリングロードを通り、建物のいたるところに彫刻があり風格のある大前神社、臨済宗の古刹で県文化財に指定された銅鐘のある能仁寺、四季折々の自然が楽しめる
根本山などがあり、小貝川に沿った道を進むと陶芸の里益子に通じるコースとなっています。
気軽に歩いてみましょう。
真岡駅 ⇒ 田町橋 ⇒ 大前神社 ⇒ 能仁寺 ⇒ 根本山 ⇒ 益子駅
環境庁・栃木県
■説明板・・・
大前神社(おおさきじんじゃ)
芳賀氏の信仰した神社で、本殿は桃山末期(1590年頃)に造られたものです。
建物のいたるところに彫刻がみられ、権現造りの発達を知るうえで大切な建物であり、写真のような彫刻もあります。本殿、拝殿、両部鳥居、銅燈ろう、太刀、宋版大般若経、大前神社本平家物語などは、県指定文化財となっています。
また五行川の堰は、二宮尊徳の監督のもとに修築した大前堰(おおさきぜき)であります。
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