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高椅神社  たかはしじんじゃ19.4.27
■説明板・・・
●高椅神社楼門(たかはしじんじゃろうもん)(建造物)
結城城主水野氏の寄進による再建とされ、宝暦四年(1754)起工、明和七年(1770)竣功、工事に際しては領内の人夫3900余人が動員されたと伝えられる。三間一戸(さんげんいっこ)の楼門であるが、一階は扉を設けず、正面両脇間(わきま)には随身(ずいしん)をまつる。前後を唐破風(からはふ)とした入母屋造りいりもやづくり)で、屋根は、かつて茅葺(かやぶき)きであったものを現在は銅板葺きに改めている。組物は三手先(みてさき)、二階に切目縁(きりめぶち)を張り出して高欄(こうらん)をまわす。すべて円柱で、中央の二本のみを通し柱とする。装飾彫刻も随所に見られ、木鼻(きばな)を唐獅子(からじし)の丸彫とするほか、欄間(らんま)部分や妻飾りに透(すか)し彫が施されている。全体的に力強く、安定感もあり、典型的な江戸中期の楼門である。
指定年月日 平成7年8月22日
所在地 小山市大字高椅702
所有者 高椅神社
栃木県教育委員会
■ネットで探したら次のような由緒を見つけました。参考に。
御 由 緒 (パンフレットより)

当社の創立は、景行天皇41年(西暦111年)、日本武尊が御東征の折、当地に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天萬尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。その後、天武天皇の12年(684)御祭神の後裔高橋朝臣が神社を建て、前記の三柱の神に氏祖神磐鹿六雁命を合わせ鎮座し、高椅神社と尊称するに至った。延喜式の神明帳に登載されている古社である。磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の1人である大彦命の御孫に当たられるお方で、景行天皇が皇子日本武尊の東征の戦跡を巡視なされた際、膳臣(かしわでのおみ)として当地までお供をなされたが、老齢のためお許しを得てこの地に留まり、以後代々豪族としてこの地方を支配した。天武天皇の12年、朝廷より「高橋朝臣」を賜り代々これを襲名した。「高椅」の地名もこれよりとったという。

後一條天皇の長元2年(1029)社域に井戸を掘ったところ、大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、まことに霊異な事と思し召され、「日本一社禁鯉宮」の勅額を賜った。以来氏子民は鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁じられたが、今日までこれを侵す者なく、鯉を食べないことは勿論、5月の鯉のぼりも立てない風習が現存している。当社が「鯉の明神さま」と親しまれているのは、この由緒によるもので、境内の南端にある神池には、氏子・崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。結城代々の城主の崇敬殊に厚く、政朝・正直・正勝・晴朝・秀康の各城主よりの寄進状・祈願文・修行留等、20余通神納され現存する。殊に秀康公が越前へ国替えになった後も代々例度の代参を欠かすことなく、明治維新まで続けられた。 明治5年郷社となり、同10年県社となる。

当地は結城合戦(1441)の戦場となったため、社殿は大破、古文書・古器宝物等も破損散乱し、創祀当時の仔細は定かでないが、記録によれば建久4年(1193)社殿の破損甚だしく氏子民の力の及ばぬため、源右府公に愁訴、結城朝光が社殿全部を改造せりと。また、天正13年(1585)結城晴朝が改築せられた際の修行溜の朱印状が現存しており、その後数次にわたって修理を加えつつ現在に至ったものと推考され、特に弊殿、拝殿は文久2年(1862)当時の奉額殿を移築改造したものと伝えられ破損甚だしく修理も限界の状況であったため、平成5年御鎮座1310年ならびに平成改元記念事業として氏子崇敬者の奉賛のもと改築事業に着手、平成8年竣工をみたものである。

楼門は、天文24年(1555)結城正勝が改修を行い、その後幾度か補修を加えたが破損し、現在の楼門は水野結城家の寄進により、宝暦4年より明和7年(1770)までの16年の歳月を要して完成したものである。大正10年、従来の茅葺きを鉄板葺きにすると共に、彫刻等の彩色をはじめ、建物全体を塗り替えるなどの大修理を行い、次いで昭和58年、現在の銅板葺きとした。昭和42年、小山市指定文化財に指定され、次いで平成7年、栃木県指定文化財の指定を受ける