【河野守弘と下野国誌】冊子より・・・・二宮尊徳資料館でいただいた冊子
河野守弘(こうのもりひろ)
河野守弘は、江戸時代の終わりごろの人で「下野国誌(しもつけこくし)」(山や川、土地の様子、産物、人々の生活、名所、神社、仏寺などを書いた本)を書いた人です。1793年(今から約210年ほど前)、二宮町大道泉(だいどういずみ)で生まれました。幼いころの名は為蔵(ためぞう)、通称は伊右衛門(いうえもん)といいました。河野家は代々名主(村長のような役)をつとめていました。
守弘は、子どもの頃、家の近くに塾も寺子屋もないので、神社の神主である祖父に「読み」「書き」「そろばん」を習いましたが、それ以上は勉強できないので父のあとをついで農業にはげんでいました。22歳の時にお嫁さんをもらいました。年末、奥さんの実家へ行ったとき、そのお父さんの学識の深さにおどろく一方、自分の学識のなさにはずかしくなってしまいました。そこで、一大決心して、奥さんをおいて勉強するため江戸に行ってしまいました。
江戸で8年間、熱心に「万葉集」や歴史の勉強を続けました。大道泉に帰ってからも自分で歴史の勉強を続けていましたが、下野国(栃木県)にはきちんとした「国誌」がないことを残念に思っていました。そこで、自分の力で何とかして「下野国誌」を作り上げたいと考えました。
下野の国の地名の由来を調べるだけでも5年間、下野の国に関係のある和歌を選び出すのに3年間と地道な努力を重ねるとともに、村々をまわり、山や川、古い遺跡、名所、仏寺、神社など実際に自分の目で確かめました。
努力をすること22年。長い間研究のため財産を残らず使ってしまい、貧しさに苦しむようになります。守弘が何をやっているか、よく知らない人達は、守弘のことをおろかな者あつかいをしました。そこで、やむをえず一時大道泉を去り、真岡に移り住みましたが、さらに知人宅を転々としながら下野国誌を完成させました(56歳)。しかし、お金がないため、国誌の印刷出版ができません。思いなやんでいると、真岡の岡部久兵衛(呉服問屋主人)が守弘の熱心さに感じ、お金やお米を贈り助けようとしました。
さらに、守弘を自宅の二階に住まわせ、たくさんのお金を出し、国誌の版木にほるための援助をしました。
版木は2年後、完成しました。版木は両面ぼりで約220枚で、今も真岡市中村の横松さん宅の国誌堂に残されています。こうして、下野国誌は出版され、世の中にでましたが、守弘はひどくびんぼうで、多くの借金のへんさいに困り、約220枚の版木は、東京の本屋に売ることになってしまいます。
※明治時代になって、長沼の地元の人たちが相談し、明治26年、お金を出し合って買い戻すことになりました。版木は古山の野中観音堂に保管されました。後に、明治34年「下野国誌蔵版記念碑」が建立された。こうして郷里に保存されることになった版木も、年月がたつにつれて保管がむずかしくなってしまします。明治42年、偶然中村の横松さんが守弘の墓におまいりしたとき、地元の人からその話を聞き、版木をゆずり受けることになったのです。横松さんは版木を保管するための校倉造りの文庫を新築しました。(国誌堂)
守弘は文久2年(1862)、真岡に住んでいたが、孫が江戸で大きな事件を起こしていまい(坂下門外の変)、真岡にもいられなくなり、いったん大道泉に帰りましたが、事件の捜索がうるさく住みづらくなり、親戚や知人のもとをやっかいになっていました。最後は、長沼八幡宮の近くの家の納屋に住んでいました。そして、文久3年(1863)4月、病気になり亡くなりました。71歳。
葬儀は、嫁にいった長女によって、生家においておごそかに行われました。大道泉阿夫利(あふり)神社境内に墓石があります。
※亡くなってから53年後、大正4年(1915)11月10日、大正天皇御即位の当日、守弘の「下野国誌」編纂の功績並びに勤皇の志を認められ、正五位が贈られました。
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