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●二宮町の風景          栃木県真岡市
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蓮城院 曹洞宗 二宮金次郎の墓域
■日光市今市の尊徳の墓(報徳二宮神社)
■尊徳の葬儀が行われた寺(日光市 如来寺)
■説明板・・・
●蓮城院
この寺は、高仰山蓮城院と云い、曹洞宗芳全寺(二宮町久下田)の末寺で嘉永4年(1851)に二宮先生が桜町仲宮から現在地に移転再建されたのもである。本尊は釈迦牟尼仏である。位牌堂(御霊屋)には領主宇津家代々の位牌、二宮先生ならびにその娘文子女子の位牌が安置されている。また、境内墓地には二宮先生の仕えた領主宇津汎之助夫妻の墓石、二宮先生ならびにその娘文子(富田高慶(とみたたかよし)夫人)の墓石、その他先生の高弟横山周平や吉良八郎等の墓石が建立されている。
一円融合会
■石碑
●二宮尊徳(二宮金治郎)について ※通称は「金治郎」 一般的には「金次郎」と表記されることが多いとのこと。
二宮金治郎は現在の神奈川県小田原市の東栢山(ひがしかやま)で、1787年7月23日に小地主である利右衛門の長男として誕生した。平穏無事な生活をしていたが、1791年の大暴風雨で田畑を失い、貧乏な生活になる。父の死後、伯父の萬兵衛に育てられるが、かくれて夜遅くまで書を読み、「本を読むより縄をなえ」と叱られた。12-3歳頃には、「大学」や「論語」を読み、山に薪をとりに行って帰る道すがら大きな声で暗誦(あんしょう:※暗唱)したりしていた。その頃の金治郎をあらわしたのが、この像です。金治郎は20歳で家に戻り、自宅の仕事や武家への 奉公をしながら、26歳で一家再興をする。この年に小田原藩の家老、服部十郎兵衛の邸に出入りしはじめ、財政整理をみごとにやってのけた。藩主が注目し、荒廃した領地である野州桜町(本地)に役人として、1822年(文政5年)36歳で派遣された。桜町の復興に、一家が移り住むほどの力をいれ、半生涯をこの地にささげました。この功績が幕府に認められ、幕府直属の役人として全国610余ヶ所の藩国や郡村の立て直しの指導をするようになりました。二宮金治郎は、服部家での若党名は「林蔵」といい、士分取立後は「政行」「治政」ともいいました。幕府登用の翌年の天保14年(1843)57歳ごろから武士としての忌み名を「尊徳」と決めたようです。「尊徳」は忌み名ですので、ふだん、ことに相手からは失礼にあたるということで使いません。本人が四角張った新年の御慶などの時に用いていただけであります。「尊徳先生」と呼ばれるようになったのは、没後のことと思われます。
蓮城院 平成12年6月吉日
■説明板・・・
●二宮金次郎墓域 二宮町指定史跡 ※こちらは「金次郎」と表記されている。
二宮翁の娘文子(富田高慶(とみたたかよし)夫人)は嘉永6年(1853)真岡東郷陣屋で難産(死胎分娩)で逝去し、親子とも両親の指示により当院に葬られた。(行年30才) 二宮翁は安政3年(1856)、日光神領復興仕法中今市役所で逝去され(行年70才)、今市の如来寺に葬られたが門人横山平太(桜町陣屋代官)がその遺髪を奉じて娘墓の側に葬った。領主宇津釩之助(はんのすけ)は明治5年(1872)東京で逝去され目黒の安養院に葬られていたが(行年81才)、明治15年桜町三村の旧領民がその功績を慕って墓石を建立し供養した。横山周平は天保4年江戸で逝去したが(行年36才)息(むすこ)平太が桜町陣屋代官として赴任し、明治維新当地に永住することになったので、父子とも当院に葬られた。吉良八郎の娘素今は、文久2年(1862)真岡東郷陣屋で逝去、両親の手で当院に葬られた。八郎は明治5年桑島村(宇都宮市)にて逝去。娘墓の側に葬られた。
↓18.12.15追加