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●矢板市の風景    栃木県矢板市
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矢板武記念館
●19.12.2
■説明板・・・
●矢板家のあらまし
矢板家は江戸時代までの姓は坂巻(さかまき)でした。明治3年ごろ坂巻武兵衛(ぶへい)は矢板の地名をとって矢板武(たけし)と名のりました。そのころ、明治政府は新しく戸籍(こせき)を作る仕事を始めておりましたので、坂巻武兵衛は矢板武と新しい名前に変えることが出来たんのです。坂巻家の系図(けいず)によると、坂巻家は戦国時代のころ甲斐(かい:山梨県)の武田氏の家来でしたが、武田氏が滅んだのち矢板に来て定住したということです。坂巻家は代々百姓をしておりましたが、日光北街道が開かれると問屋業も営んで財産を増やしました。

那須野が原の開拓に尽力した矢板武の祖父(武兵衛)は、高原山などの豊かな材木を東照宮のある日光方面に送り出す材木問屋をしておりました。そのころの日光北街道は悪路で特に倉掛(くらかけ)村付近の山道は坂が急で旅人は難儀しました。そこで材木問屋の仲間や村人たちと相談して、新しく倉掛新道(矢板市から塩谷町に行く道の旧道のことのようです。その旧道には碑があるようです。)を作りました。新道工事にはたくさんのお金と大勢の労力が必要でしたが完成させ、通行人に大変喜ばれるような仕事もしました。

矢板武の父(五衛門:ごえもん)は、この地方の米を(当時は米の取れない)今市や日光方面に送り出す米問屋をしていました。今市や日光は、日光にお参りする人が多かったので、多くの米が必要だったのです。商売も順調に進んでおりましたが若くしてこの世を去りました。幼くして両親を亡くした矢板武は祖母の言いつけをよく守って勉学に励み、しっかりした人になりました。

若い時から村役人などに任命され村人にしたわれ、時代が変わって明治になると、この地方の副戸長・区長をつとめ地域の指導者になりました。その後、那須野が原の開発事業に情熱を傾けたほか、日本鉄道株式会社(JRの前身)の役員となって矢板に鉄道を通す事に努力し、下野銀行や矢板銀行などを設けて頭取(代表者)になり、明治初年のころ荒れ果てていた日光を復興するため、保晃会(ほこうかい)という組織を作って多くの人々から募金を集めて日光のため努力もしました。

矢板家は古い家でしたから、明治45年に大修理をして、現在のような邸宅になりました。矢板武は主に経済の発展に努力を注ぎましたから、明治から大正時代にかけて活躍した明治の元勲(げんくん:国のために大きな功績のあった人)たちとも交際が多かったのです。三条実美(さんじょうさねとみ:右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族院議員などを歴任した)、山縣有朋(やまがたありとも:最後は元帥陸軍大将と呼称された)、品川弥二郎(しながわやじろう:政治家。勲一等子爵)、渋沢栄一(しぶさわえいいち:実業家)、勝海舟(かつかいしゅう:最後は伯爵)、大鳥圭介(おおとりけいすけ:最後は男爵)、などのほか名士の書や大事な品物などが数多く残されています。

●聚薼亭(しゅうじんてい:じんはクサカンムリの下に塵の字)
正面玄関を入ると「聚薼亭」と書かれた額が掲げられています。明治14年の晩秋勝海舟は日光に来られた折に矢板武家を訪ね、この額を書かれたものと思われます。字の通り読むと「薼(ちり)に聚(あつ)まる亭やしき」ということになりますが、その意味は次のようにも考えられます。勝海舟は「吹薼録(すいじんろく)」という書物を遺したり、「政薼(せいじん)の外に超越し」など、「薼」の字をよく使っています。明治14年のころの矢板武は、那須野が原開発のために忙しく働いていて、那須野が原開拓の関係者や、国の中心になっている政治家たちが、この屋敷に出入りしていました。この様子を考えて「薼まみれになって働いている人たちの集まる屋敷」と名づけたものと思われます。

●矢板武の後継者たち
矢板武の跡をついだのは矢板寛(ひろし)です。武の子は女子ばかりでしたので、渋沢栄一の媒酌により、福井市の名門野村家から養子を迎えたのです。矢板寛は旧制東京帝国大学(今の東京大学)を卒業した秀才で、特に中国文学には優れた学者でした。中国から招かれて軍官学校(中国の軍隊の幹部を養成する学校)の教官を勤めるかたわら、東京帝大に時々論文を送ったと言われます。日本に帰ったのち、下野銀行の頭取、矢板銀行の頭取、矢板町長などの要職につき、矢板武の跡をついだのです。晩年は漢詩を作ったりして優雅な生活を送りました。

矢板寛のあとは矢板玄蕃(げんば)です。寛の子も女ばかりでしたので、福井市の名門加藤家から養子を迎えることになり、迎えられたのが、矢板玄蕃です。矢板玄蕃も旧制東京帝国大学卒業で経済学に優れた人でした。東京に住んでいる事が多く、経済界の要職につき活躍していました。矢板に帰ってからは矢板市教育委員長などにつきました。矢板玄蕃の子が矢板玄(くろし)です。矢板玄は科学者で昭和電工その他の会社で技術者として活躍しました。晩年は矢板信用組合理事長などを勤めて、この家に住んでいました。このように、矢板家の人々は国家や社会のために活躍し矢板邸を留守にする事が多くなりました。現在の当主矢板肇(はじめ)氏も、生活の本拠が逗子に在り東京に勤務して居りますので、父玄氏の意思もあって、平成9年矢板市に寄附され現在に至っております。
矢板市教育委員会