■記念碑説明・・・
●小堀鞆音(こぼりともと)生誕の地
小堀鞆音 画伯は元治元年(1864)、幟絵師須藤晏斎(すどうあんさい)の三男としてこの地に生まれ、幼少にして学を好み、卓抜した画才を発揮し、長兄早逝後は特に家族縁者の期待するところ大きく、長じて近くの親戚小堀家再興のため養子となるも、画道追求の念止み難く、遂に郷関(きょうかん:故郷の国境)を出で上京して時の歴史画家川崎千虎(かわさきちとら)の門に入り、刻苦勉励(こっくべんれい:ひたすら努力を重ね、苦労して勉学や仕事に励むこと。)して大和絵を極め、正確な考証を専らとする歴史画に新分野を開き、岡倉天心の傘下にあっては横山大観、下村観山等と日本美術院を創設し、美術学校助教授時代には「武士」「常世(とこよ):※佐野源佐衛門常世を描いた絵のことかな?」等の名作を世に遺し、後に帝室技芸員、帝国美術院会員、美術学校教授、文展、帝展の審査員等を歴任すると共に、後進の育成に力を注ぎ、安田靫彦(やすだゆきひこ)川崎小虎(かわさきしょうこ)を初め多くの俊秀をその門から輩出させ、「日本歴史画の父」と仰がれました。
また、小壮より亀田桜園に師事し、国学を修め、皇室尊崇の念厚く、明治神宮聖徳記念絵画館には畢生(ひっせい:一生涯)の名画、廃藩置県図外二点の大壁画を奉納すると共に、敬神崇祖の念強く、近くは人丸神社に柿本人麻呂像、蒲生神社に蒲生君平像、日光東照宮には東照公以下三公像を奉納し、遠くは近江の沙沙貴神社(ささきじんじゃ:滋賀県近江八幡市安土町常楽寺)に佐々木高綱像、大和の法隆寺に聖徳太子像、河内の観心寺に大楠公(だいなんこう:楠木正成)、小楠公(しょうなんこう:楠木
正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代の武将。楠木正成の嫡男)像、備後の吉備寺には吉備真備(きびのまきび:奈良時代の学者)像等、全国各地の神社仏閣に御神像や先哲遺賢(せんてつ・いけん:昔のすぐれた思想家・すぐれた才能を持ちながら、政府に用いられないで民間にいる人。)の肖像を数多く遺し、我が民族の美しくもまた豊かな文化を今日に伝えており、その業績はまことに偉大で、私たちの郷土の誇りであります。昭和6年10月、画伯逝去の際には、多年にわたる画伯の功績が認められ勅使が差遺され、特旨により位一級を上進し、正四位勲三等が霊前において授けられました。
然しながら、その後は国を挙げての戦争の時代となり、画伯の偉業も影を潜め、戦後は歴史観が一変してその功績は顧みられること少なく今日に至りましたが、戦後半世紀を経てようやく我が国の歴史が、正視されようとする気運になって来た平成5年、郷土の有志と相図り、小堀鞆音画伯顕彰会を設立し、画伯の御令孫小堀桂一郎東京大学教授、毛塚吉太郎佐野市長を初め22名の顧問の方々のご指導を仰ぎながら、300余名の会員各位の真摯な活動により、社会の多くの方々に画伯の偉業をご理解いただくことができました。幸いにして、平成7年、画伯生家跡地に用地を確保することができましたので、ここに画伯の顕彰碑を建立し、永くその偉業を後世に伝えると共に、郷土後進の興起発奮に資することを念願いたします。
平成8年10月吉日
題字 画伯嫡孫文学博士東京大学名誉教授 小堀桂一郎 書
碑文 小堀鞆音画伯顕彰会会長 池澤嘉夫 書
※ちょっと読み方が難しいのでふりがなをつけてあります。 |