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●益子町の風景    栃木県芳賀郡益子町
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藤根善治の墓 正宗寺 ■正宗寺
20.2.2
たきぎ様由来
下野国芳賀郡益子、七井、清水、生田目、上大羽、栗生、深沢の七ケ村は、黒羽城主大関侯の治下で下の庄と称し益子村に陣屋ありて、黒羽表より役人が派遣され、一切の政事を司る。従って年貢なども毎年ここより、江戸表の黒羽藩屋敷へ送られる。享保13年(1728)の大凶はこの近郷をも襲う。ために領民年貢米の延納を請願するや、薪(たきぎ)年貢は平年の倍納入を要求さる。領民の生活は全く困窮に陥る。空しく凶作は再度襲われる。領民も難渋、その極(きわみ)に達す。

ために薪年貢の半減上納を嘆願すれども許されず。益子村、藤根善治と申すもの寝食を忘れて難民の救助に心を砕くも、遂に領民一同蜂起、一揆の形勢に入るを見るや、ことの暴挙を説得し、身は七カ村総代となり、黒羽に赴き、領民の窮状と代官の暴政等を強訴(ごうそ)する。依って願の趣は聞き届けられ薪年貢は半減納入を許容されたるも、代官の謀略により、一揆の頭領、強訴頭取人の重罪をもって捕らえられ、享保15年2月16日、斬罪を仰せ付けられ、妻子もろとも処刑される。領民悲嘆慟哭(りょうみん ひたん どうこく)、
正宗寺に埋葬す。

その翌年境内に石碑を建立し懇(ねんごろ)に、この大義民「たきぎ様」の供養を営むその後、該(その)石碑は、事件煙滅(えんめつ)の謀計(ぼうけい)により埋没久しく嘉永2年(1849)益子村名主飯塚新左衛門改め見しところ、大誉宗慶信士とあるをもって藤根善治「たきぎ様」の石碑とわかり、このまま捨て置いては年回施行も成らず、七カ村の子孫のものの人倫(じんりん)の義をも失うため毎年7月7日の正宗寺施餓鬼(せがき)のみぎり、追福執行(ついふくしっこう)を続けられるよう、その費用は七カ村、石高割に依って醵出(きょしゅつ)する。

明治維新後は益子一村で供養を行う状態となるも明治13年、七カ村融資の浄財喜捨(じょうざいきしゃ)を募り(つのり)永年回向料(えいねんえこうりょう)の造成を見る。然るに(しかるに)歳月(さいげつ)は流れ供養を営むものは正宗寺と、その檀徒(だんと)のみとなる。
昭和42年秋彼岸
益子町道祖土大塚精次郎氏肝入りとなり関係者と相はかり正宗寺境内に霊地を設定して、該(その)石碑を復元し懇(ねんごろ)にその霊をとむらい今日に至る。
明治13年たきぎ様由来による
益子町立益子小学校長 菊池義男撰
昭和43年秋彼岸
一翁山 正宗寺
・・・難しいのでふりがなをつけてみましたが・・・