■説明板・・・ ●下野国分寺・国分尼寺
国分寺は奈良時代の天平13(741)年、聖武天皇が国の平和と繁栄を願い、国ごとに造営を命じた寺院です。下野国分寺跡は大正10年3月3日に国の史跡に指定され、現在は伽藍(がらん)の基壇(建物の基礎)跡が地膨れとなって平地林の中にひっそりと眠っています。伽藍配置は全国の総国分寺である奈良の東大寺と同じ形式で、南北一直線上の南大門(なんだいもん)、中門(ちゅうもん)、金堂、講堂が並び中門と金堂は回廊によってつながっています。塔は回廊の外側東方に置かれ、基壇の規模から七重の塔があったと推定されています。また、金堂の東西には鐘楼、経蔵がおかれています。下野国分尼寺は昭和39〜43年度にかけて栃木県教育委員会と町教育委員会により4次にわたる発掘調査が実施され、伽藍配置が明らかになりました。 昭和40年4月に僧寺跡 同様国指定史跡となり、昭和45年度までに国・県の補助を受けて史跡整備が実施されました。この伽藍全体に及ぶ調査・整備は全国に先駆けて実施されたものです。尼寺の伽藍は、国分寺と同様に掘立柱塀で囲み、その南辺中央に南門を設け、中門・金堂・講堂・尼房が一直線に並び、回廊が中門と金堂をつないでいます。また、金堂・講堂の東西に鐘楼・経蔵を配し、塔は持っていません。建物規模は、金堂が桁行7間(20.9m)、梁間4間(12.1m)となっています。
四至(しし)については、近年の調査によって、国分寺を同様に伽藍他の掘立柱塀を築地塀に建て替えること、寺院他の区画溝を周囲に巡らすことが判明しています。また、尼寺からも国分寺改修の時期の瓦が多量に出土しており、尼寺も9世紀後半頃、国分寺同様、主要堂宇の改修を行っていることが判明しています。 |