|
|
●小川町見て歩き 住所 栃木県那珂川町 19.8.31 雨 |
|
駒形大塚古墳 |
|
|
■説明板・・・
●国指定史跡 駒形大塚古墳 昭和54年3月13日指定
本古墳は北から南に伸びる段丘と直角に築造された、西向きの前方後方墳である。前方部の墳丘を失っているが、昭和49年11月に発掘調査され、墳形と内部主体が明らかになる。前方部は両側裾の先端が八の字形に前開きする古式な形で、全長は64mである。現存する後方部墳頂下1.5mのところに設けられた主体は、木炭でとりかこまれた内面朱塗りの木棺であり、画文帯龍虎鏡(がもんたいりゅうこきょう)、銅鏇(どうぞく)、蕨手状の素環頭刀子(そかんとうとうす)、鉄直刀、鉄剣、鉄斧、テツヤリガンナとガラス小玉など、古い時期の副葬品である。かつ、後方墳頂下浅く、古い土師タカツキ、ツボなどの葬祭器が出土しているなど、外形、内容とも極めて重要な古式な前方後方墳である。小川町は、本古墳とともに、那須八幡塚古墳、吉田温泉神社古墳の三基の古式な前方後方墳が存在することから、4世紀に下野では最も早く開発され、永く繁栄した様子がうかがわれるところである。
昭和60年3月1日
那珂川町教育委員会 |
■説明板・・・
●天恵慈水 栃木県知事 船田譲書
源を福原地先(大田原市)の箒川に求め小川町を潤して遠く烏山町霧ケ沢に至る延長20余kmの県営西の原用水改良事業は、近代的工法の粋を尽くし着工以来8年の歳月を閲して完成した空前の大規模事業である。抑々(そもそも)西の原用水は明治初期郷土の先覚者相計り開墾社を設けて荒涼たる小川村西の原一帯の開発に鍬(くわ)を下し、水利の要を痛感して刻苦精励8km余の水路開削にはじまり、以後80有余年克く(よく)天変にも耐えて流れを絶えず滔々(とうとう)として今に至ったのである。適々(たまたま)この農業用水を権津川以南烏山町地内まで延長して天水地帯の用水不足の解消と合理的な水利用による農業経営の近代化に資する目的で昭和28年関係町村の協議整い事業計画その緒に就く。その後路線の変更をはじめ幾多の曲折により工を遅らすこと10年。昭和38年に再び本計画実施の気運成り西の原用水土地改良区連合を設立し事業実施体制を確立して実現を図り遂に昭和41年着工、昭和49年3月事業費実に10億1500余万円の巨額を算して完成をみたのである。この業洵(ぎょうじゅん?)に偉その功甚だ(はなはだ)大、これ偏に(ひとえに)政を為す者の深慮英断と地域関係者の多年に亘り協心戮力(きょうしんりくりょく:全員の力を結集し、一致協力して任務に当たること。)宿願達成に力を致した所以(ゆえん)である。今や堅牢な頭首工からの導水は滾々(こんこん)として昼夜を措かず(おかず)田に注ぎ畑を浥して(うるおして)豊穣たる垂穂清秋に靡く(なびく)を見る。希くは(こいねがわくは)常にこの施設の保全活用につとめ永く天與(てんよ:天から与えられたもの))の恵澤(けいたく:恩恵)を享け(うけ)られんことを
昭和52年2月2日
※文面が難しいですね。
■西ノ原頭首工(西ノ原用水取水堰) |
■説明板・・・
●圃場(ほじょう)整備事業完了記念
豊郷肥沃 農林水産大臣 渡辺美智雄書
那須野原の一画米作に適した沃土を有する小川町は近代農業経営を第一として圃場の整備に着目した。同士相集い組合員の賛同を得て着工し、幾多の難関をへてここに機械力導入に可能な大型圃場が完成したのである。この偉業を永く後世に伝え、地域農業の発展を祈念してこの碑を建立するものである。
昭和54年9月 小川第一土地改良区 |
|