■那珂川町(旧小川町)駒形大塚古墳にあった碑・・・
●天恵慈水 栃木県知事 船田譲書
源を福原地先(大田原市)の箒川に求め小川町を潤して遠く烏山町霧ケ沢に至る延長20余kmの県営西の原用水改良事業は、近代的工法の粋を尽くし着工以来8年の歳月を閲して完成した空前の大規模事業である。抑々(そもそも)西の原用水は明治初期郷土の先覚者相計り開墾社を設けて荒涼たる小川村西の原一帯の開発に鍬(くわ)を下し、水利の要を痛感して刻苦精励8km余の水路開削にはじまり、以後80有余年克く(よく)天変にも耐えて流れを絶えず滔々(とうとう)として今に至ったのである。適々(たまたま)この農業用水を権津川以南烏山町地内まで延長して天水地帯の用水不足の解消と合理的な水利用による農業経営の近代化に資する目的で昭和28年関係町村の協議整い事業計画その緒に就く。その後路線の変更をはじめ幾多の曲折により工を遅らすこと10年。昭和38年に再び本計画実施の気運成り西の原用水土地改良区連合を設立し事業実施体制を確立して実現を図り遂に昭和41年着工、昭和49年3月事業費実に10億1500余万円の巨額を算して完成をみたのである。この業洵(ぎょうじゅん?)に偉その功甚だ(はなはだ)大、これ偏に(ひとえに)政を為す者の深慮英断と地域関係者の多年に亘り協心戮力(きょうしんりくりょく:全員の力を結集し、一致協力して任務に当たること。)宿願達成に力を致した所以(ゆえん)である。今や堅牢な頭首工からの導水は滾々(こんこん)として昼夜を措かず(おかず)田に注ぎ畑を?して(うるおして)豊穣たる垂穂清秋に靡く(なびく)を見る。希くは(こいねがわくは)常にこの施設の保全活用につとめ永く天與(てんよ:天から与えられたもの))の恵澤(けいたく:恩恵)を享け(うけ)られんことを
昭和52年2月2日
※文面が難しいですね。 |