■説明碑・・・
●黒羽河岸
黒羽河岸(上河岸・下河岸)は、黒羽藩の認可のもと、民間の手により明歴元年(1655)に開設された。万治期(1658-61)より物資の運送が開始された。上河岸の場所は、現在のホテル花月であり、下河岸は、現在の烏山信用金庫から豆田橋までの場所に立地していた。那珂川筋帆船の遡航する終点に位置する黒羽河岸から、小鵜飼船などによって運搬された物資は、米を中心として酒や醤油・煙草・柏皮・水油・楮(こうぞ)・栗・木材・木羽・硫黄・茶・菜種・絹糸などであり、帰り荷は主に海産物であった。上・下河岸に運搬上の特別な分担はなかったが、米穀の輸送については、主に下河岸が当たっていた。黒羽から江戸への輸送については、那珂川筋の「東通し」と鬼怒川筋の「西側廻し」があったが、前者は中継ぎが多く、鬼怒川筋の阿久津・板戸河岸などと比べると、荷量や収益は小さかった。天保期(1830-44)の頃、上河岸は九兵衛、下河岸は源兵衛によって経営されていたが、明治初年頃においても、河岸場には、船問屋事務所や会津藩・高田藩の倉庫、荷物小屋、船乗り・筏乗りが泊る船宿、駄馬をつけてきた馬子のための飲食店、旅籠などが軒を連ねていた。その後、明治期に黒羽河岸の名は、植竹回漕店と改められたが、明治18年(1885)に東北本線が開通すると、河岸から米穀輸送は激減し、その他の物資輸送も漸減(※ぜんげん:しだいに減ること。)していき、木材のみが筏に組まれて運送されるに過ぎなくなった。そして、東野鉄道が西那須野〜黒羽間で開通(大正7年 1918)すると、水運は全くその姿を消すこととなり、河岸も終焉を迎えた。 |