・・・・・大田原市の風景・・・・・
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 大田原市  25.4.16    09
実相院 
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■説明板・・・
●実相院案内
◎当山の由来
月江山慈雲寺実相院と号す。曹洞宗 永享年間(約550年前) 福原氏の娘、この地に尼寺を創建し、実相庵と称し、後に実相院と改称される。永禄11年(1586)福原家累代の菩提所となり、寺縁を受く。文化5年(1808)火災により、山門及び本堂に安置せる仏像4体を残し、大伽藍は全焼した。文政4年(1821)本堂伽藍の再建工事が竣工した。現在の堂宇がそれである。
◎史跡 福原家累代の墓所(大田原市指定文化財)
永禄11年(1568)福原安芸守資孝は居を佐久山に移し、実相院を福原家累代の菩提所と定め、福原より歴代の墓を当寺に改葬した。墓所は本堂の南に位置し、江戸時代の藩主としての墓所形式を保存している。
◎山門
元禄年間(約300年前)藩主ふくはら資倍公夫人は播州山崎藩主本多肥後守忠英公の娘であった。夫人は養父母供養のため山門を寄進した。山門屋根に福原、本多両家の家紋が刻されている。唐風建築を取り入れた四つ脚門であり、屋根は矢板市平野産の石を用いた石屋根である。幾度かの火災にも難を免れて、元禄時代の姿そのままを現在に伝える貴重な建物である。
◎大高源五(赤穂浪士)の墓
佐久山大高家は藩医として仕え、子孫は代々佐久山藩士となった。播州赤穂大高家の長男源五、次男幸右衛門は共に義士討ち入りに加わり、相果てた。母は親戚の佐久山大高家に身を寄せていた。その後、子達の 遺髪を当寺に分葬し、尼となってその菩提を弔う日々を過ごしていたが、翌年9月没す。大高家墓所の碑文は、300年の星霜を経て判読するは困難であるが、位牌堂には大高家の位牌が安置されている。
◎印南丈作翁の墓(那須野ケ原開拓の先駆者)
明治初年、水利に恵まれぬ那須野ケ原は、広漠(※こうばく:広々としてはてしないさま。)たる無人の荒野であった。翁はその開拓を志し、東奔西走、心血をそそいで那須野ケ原開拓に一生を捧げた。日本三大疏水のひとつと称される那須疏水の幹線水路は、明治18年(1885)完成し、待望の水が流れた。しかし、きびしい政治活動に健康を害した翁は、その後のめざましい発展を見ることなく、明治21年(1888)没す。行年57歳、常に病身の夫の身を案じつつも、夫を励まし、蔭で開拓運動を支えたトミ夫人と共に、境内の印南家墓地に眠る。
◎梵鐘
昭和38年(1963)人間国宝 長野垤志(※ながのてつし:愛知県出身 昭和38年人間国宝)先生の作である。梵鐘の響きに、諸行無常を感じながら、今日を生かされた感謝の心で撞きたいものである。
◎施無畏(※せむい)観音
すべてに慈悲を施したまう観世音菩薩像である。那須三十三観音第18番札所
◎水子地蔵尊
昭和53年(1978)の造立、坂を登ると、遠く那須の山なみを望み、箒川の流れを見おろす境内随一の絶景の地に水子地蔵尊が安置されており、毎年8月23日万灯供養を行う。
◎桁(けた)の足跡
文政年間、本堂伽藍の再工事の折、天候急変して大雷雨となり、人々は恐怖のあまり、逃げ去ってしまった。ときの住職瑞門和尚は大力無双であった。滝沢の人赤羽米蔵とふたりで、大雨を物ともせず、見事大桁を取り付けた。その際、泥の足跡を拭き取るのを忘れてしまった。落慶法要に際し、泥の足跡を拭き消そうとした時、藩公の命令で、ふたりの功績を後世まで伝えるために、泥の足跡をそのまま残したと伝えられている。