■説明板 足尾銅山社宅愛宕下(あたごした)往時のようす
江戸時代の愛宕下は赤倉村字坂詰(さかつめ)という地名で農家が3戸あったが、明治20年(1887)に松木から起こった大山火事で焼失し、以後草っぱらとなっていた。
その後足尾銅山の社宅地として開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人たちの飯場が建てられたが、工事が終わると撤去された。
次いで同40年代になると対岸の製錬所の社宅14棟(1棟7戸建)が建ち「赤長屋」と呼ばれるようになり、大正10年(1921)に久蔵の社宅がこの地に移されるなど変遷を経て増大した。
戦後は「愛宕山」の麓に位置するところから「愛宕下」と呼ばれ、昭和34年(1959)には181世帯819人の人口を数えたが、経営合理化により徐徐に減少し、足尾銅山閉山時(昭和48年)110世帯377人、足尾製錬叶ン立時(昭和62年4月1日)49世帯127人、平成9年(1997)現在で13世帯24人が住むのみとなり、昔日を偲ぶ”つわものどもの夢の蹟”となりつつある。 |