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●足尾町の風景 栃木県日光市 |
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本山鉱山神社 |
磐裂神社・・・通洞鉱山神社・・・砂形稲荷神社・・・稲荷神社(切幹)・・・通洞鉱山神社
猿田彦神社(銀山平)・・・本山鉱山神社・・・三峰神社(野路又)・・・磐裂神社・・・日光七福神 |
■説明板1・・・
●足尾銅山
足尾銅山は、慶長15年(1610)に発見され明治になるまで、幕府の御用銅を生産し続けました。本当に足尾が発展したのは、明治10年(1877)に銅山経営が古河市兵衛になってからです。明治17年に大鉱脈がみつかり、銅の生産量が増えると共に人口も増え、大正5年には38,428人という当時の栃木県では、宇都宮市に次いで2番目に多い人口の町となり、銅山社宅が次々とつくられました。大正になると足尾鉄道(現在の「わたらせ渓谷鉄道」)が開通し、粗銅の運搬を鉄道で行えるようになり、足尾銅山は隆盛を誇りました。しかし、戦後の足尾銅山は経営の合理化、自山産銅の減少により、人口も減り続け過疎化に拍車がかかりました。そして、昭和48年2月、足尾銅山は鉱源の枯渇、コスト高、採掘条件の悪化等を理由に、採鉱部門を廃止し実質上の閉山となりましたが、製錬部門は外国からの輸入鉱石をつかって、現在も操業を続けています。
環境庁・栃木県・・・・※この説明板がいつごろ設置されたのかはわかりません。「現在も操業を続けています。」のところは不明です。
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■説明板2・・・
●江戸期の大学者 佐藤信淵(さとうのぶひろ)在住の地
鉱山学者の父に従って15才の頃来山。短期間であったが銅山開発のため、この付近を大いに探索したであろう。
日光市 |
■説明板3・・・
●日光市指定史跡 本山鉱山神社(日光市指定有形文化財(建造物))
本山の山腹にあり、明治22年に坑長(古河鉱業株式会社足尾鉱業所長)木村長七以下、本山坑に働く鉱員達の寄進により造営されたもので、足尾銅山の山神社としては、最古のものである。鉱山神社はふつう山神社といわれ大山祇命、金山彦命、金山姫命の三神を祀ってある。昔は本山坑のかたわらに小祠としてあったのを、ここに新たに神社を建設して移したもので、本殿は流れ造りである。山神祭が毎年行われ、足尾銅山の盛時には、盛大に行われた。
昭和52年3月 日光市教育委員会 |
■説明板4・・・
●閉山直前の本山のようす
本山は、本口坑・たかの巣坑の開削(かいさく)につづき、明治17年(1884)に有木坑(本山坑)が開発されると同時に、鉱業所・選鉱所・製錬所・医局などの施設がおかれ、その後火力発電所や本山小学校の前身となる学校が設けられたりして、名実ともに足尾銅山の中心として大きく発展し、足尾は日本一の銅山になったのです。明治40年に、本山の労働争議をきっかけに、鉱業所が掛水へ移りましたが、本山は北部地域最大の集落に形成されました。しかし、昭和48年(1973)2月28日に、足尾銅山が閉山となり、本山には、そのとき138世帯477人(10年前の昭和38年4月には、290世帯1167人)が住んでいましたが、その年の8月に無人となりました。今は、鉱山神社がぽつりと、”つわものどもの夢の跡”を見守っているだけとなりました。
日光市 |
19.9.25撮影。天気曇り時々晴れ。山に入ってまで神社を見てくる勇気はない。熊! |
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