粟野城の沿革
粟野城は、今から650年ほど前の暦応元年(1338)足利尊氏に従っていた平野将監範久の築城と伝えられ、粕尾、粟野、清洲、南摩を領していたといわれる。その後近隣の豪族の圧迫を受けるが、皆川氏の興るに及んで皆川氏の属城となり、皆川氏の一族斉藤左衛門秀隆が居城した。
天正12年(1584)皆川氏は北条氏と対戦し、栃木の草倉山で100日間の対陣したそのすきに、北条氏の親戚左野氏が粟野城を攻め落とし、平野将監範久の子孫平野大膳久国ら城代7将を置いて守らせた。
天正16年(1588)皆川山城守広照は旧領地を奪回しようと二千余騎で粟野城を攻め大激戦を展開、ついに城は落ち皆川氏の所有となり落合徳雲入道が城代となる。
天正17年(1589)豊臣秀吉が小田原征伐を行ったとき、皆川氏は小田原氏に組し小田原に籠城したその留守に豊臣秀吉の命を受けた越後の上杉氏、信濃の真田氏が皆川本城を始め粟野城を攻め、天正18年4月落城する。
築城以来250余年、この時から粟野城は廃城となる。後年、明治に至って横尾勝右衛門氏が城山の戦死の霊を弔うため五重塔を建て、全山につつじ、梅を植えるなどして公園となし今日に至っている。
昭和61年4月
粟野町役場 |