01   益子町     大郷戸     25.2.5     田園風景百選へ 益子町へ
とちぎのふるさと田園風景百選に益子町大郷戸が選定されている。
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大郷戸ダム現地の伝説説明板・・・
■長者窪(くぼ)の伝説
(このダムの奥の富谷観音へつながる古街道沿いに長者窪の伝説が伝えられています)昔、長者窪と言われている場所に広い屋敷を持った長者様が住んでいました。入口には橋がかかり長者橋と言われていました。この長者には願をかけやっと生まれた姫がいましたが三歳の時母を失ってしまいました。姫は大変美しく、十六歳の頃になるとその噂は都にも聞こえ太子の后(きさき)にとの声がでました。しかし、長者の後妻はこれをねたみ長者に嘘を告げたため姫はせっかんのうえ殺されてしまいました。その後、長者はそのあやまちに気付き富谷の地にお堂を築き十一面観音を祭りました。それが富谷観音建立(こんりゅう)のいわれと伝えられています。
山本・大郷戸地区ふれあいの郷づくり推進委員会

・・・富谷観音は茨城県桜川市(旧岩瀬町)にある小山寺。
国指定重要文化財の三重塔、本堂、鐘楼、仁王門等建物も茨城県指定文化財になっている。
機会があれば見てみたい。

もう一つの説明板・・・
■大郷戸廃寺跡五輪塔群(町指定文化財 昭和48年2月7日指定)
これらの五輪塔群は行灯峰(あんどんほう:背面の山)の中腹にあり、鎌倉時代から室町時代にかけて建立されたもので、当時この地方を支配していた益子氏の墓ではないかといわれている。当時、これらの五輪塔群のすぐ北の隣接地には寺院(現在は大郷戸廃寺跡(はいじあと)と呼ばれ畑になっている)があり、そのすぐ東には茨城県大和村の雨引(あまびき)観音から岩瀬町の富谷(とみや)観音を通り、尾根伝いに大郷戸を抜け益子の西明寺や大羽の地蔵院に行ける道があった。太平洋戦争後、食料増産のため行灯峰の中腹より下が解放となり開墾され畑地となった。そのときも多くの五輪塔が発見され畑の土留めに使われたが、昭和35年春には大雨の土砂崩れによっておびただしい数の五輪塔と火葬骨(かそうこつ)の入った瓶子(へいし)が姿を現した。そのうち五輪塔1基と瓶子は供養のため大字上山(かみやま)の普門寺(ふもんじ)に納められたが、地元でも五輪塔5基を大郷戸廃寺跡の一角に、後に東の山すそに組み立てて供養を行った。しかし、いくつかの五輪塔と瓶子が持ち去られてしまい、また、残った五輪塔は再び畑の土留めに使われたり土中に埋められ畑として耕作していた。これらの畑は傾斜地で道も狭かったため、最近は耕作されず荒地となってしまった。地元ではそのような状況を憂いていたため、平成8年から10年にかけて町教育委員会が主体となって発掘を行うとともに、以前供養した五輪塔や地区内に散在していたものもできる限り集め整備し供養を行った。
益子町教育委員会