野尻騒動(定橋跡)
江戸時代、野尻は大芦川と荒井川の合流点近くにあり、石裂(おざく)街道と出流(いずる)街道の交差する交通の要衝でした。嘉永5年(1852)に板橋を架け、更に安政5年(1858)と翌年にも定橋が架けられましたが洪水のたびに流失してしまいました。このとき名主の多市は、橋供養のため「日天月天」「水神宮」の碑を建立し、禁止されていた地芝居を催しました。この芝居の最中に役人の手入れがあり、大乱闘となり多くの村人が逮捕され処罰されました。この事件を「安政野尻騒動」といってます。定橋の架けられた場所は「日野橋」の下流の「旭が丘浄水場」の東側に当たり、現在「安政野尻騒動の供養塔」が置かれています。 |