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●鹿沼市の風景 お寺       栃木県鹿沼市

下加園村・上加園村
興源寺 曹洞宗

鹿沼三十三観音 石裂三十三観世音
・鹿沼33観音第25番 

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むかしの下加園村 
鹿沼の歴史  「鹿沼市史資料編 近世1」参考

下加園村
川上は上加園村と接し、東は下日向村、南は野尻村に接する。「慶安郷帳」では田180石余・畑18石余、他に興源寺領7石とある。興源寺の薬師如来像の銘に貞和5年(1349)「賀園郷」とある。興源寺は山号満目山、曹洞宗(本尊正観音)で宝徳2年(1450)の創建と伝える。元禄9年火災により焼失、その後現在地にうつる。

下加園村の概要
山あいを流れる荒井川にそって開けた畑作優位の村で、中世には上加園村とあわせて賀薗郷と称された。近世に入ると、当初は幕府領であったが、慶安2年(1649)に鹿沼藩領、享保9年(1724)に鹿沼藩主内田氏が下総小見川藩に転封したのちも同氏の支配を受け、天保9年(1838)に一時幕府領となり、天保11年(1840)に幕府領と吹上藩領となり明治維新を迎えた。「元禄郷帳」による石高は612石余。戦国期に築城された加園城のあった竜ケ谷山から石灰石が掘り出され、江戸時代を通じて、石灰石を焼き上げた石灰の生産が村にとって重要な生業の一つであった。

むかしの上加園村   
「鹿沼市史資料編 近世1」参考

上加園村
村の中央を荒井川が流れる。川上は下久我村、川下は下加園村。永禄元年(1558)城主渡辺右衛門尉が神園神社を修理して別当宝蔵院を建てた。「慶安郷帳」では田124石余・畑289石余とある。

上加園村の概要
山あいを流れる荒井川にそって開けた畑作優位の村で、中世には賀薗郷と称された。近世に入ると、当初は幕府領であったが、慶安2年(1649)に鹿沼藩領、享保9年(1724)に鹿沼藩主内田氏が下総小見川藩に転封したのちも同氏の支配を受け、天保9年(1838)に一時幕府領となり、天保11年(1840)に幕府領と吹上藩領の相給村となった。このときの知行分けは集落単位にされた形跡が認められる。「元禄郷帳」による石高は413石余。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』■鹿沼のむかしばなしさつき地蔵

鹿沼藩(かぬまはん)は、下野国都賀郡鹿沼(現在の栃木県鹿沼市坂田山)に存在した藩。

[編集] 藩史
正保4年(1647年)、小姓組番頭であった朽木稙綱は、鹿沼において5000石を加増され、2万5000石の大名として鹿沼藩を立藩した。しかし慶安2年(1649年)に稙綱は常陸土浦藩に移され、代わって相模国・下総国・常陸国などで1万石を領していた内田正信が5000石加増の1万5000石で入った。正信は慶安4年(1651年)の徳川家光の死去に伴って殉死したが、後を内田正衆が継いだ。正衆が元禄12年(1699年)2月4日に死去した後は内田正偏が継いだ。正偏は享保9年(1724年)10月29日、狂気により妻女を傷つけた罪を咎められて蟄居処分となった。(伝承で、江戸で見初めた町人の妻を鹿沼に連れて帰り、其れを追って尋ねてきた父子を無礼と下の者に斬り捨てさせ、其れから狂気に走るようになった。という言い伝えがある。)家督は長男の内田正親が継ぎ、1万石に減封の上で下総小見川藩に移され、ここに鹿沼藩は廃藩となった。

1724年ころといえば、将軍徳川吉宗の時代、こんなことがネタとなって時代劇がつくられる。暴れん坊将軍が「腹を切れー」と、言うのも無理ないか。