むかしの引田村
「鹿沼市史資料編 近世1」参考
引田村
大芦川の流域にある。「慶安郷帳」では田19石余・畑458石余。日光領として煤払いごとに葉唐竹30本を出した。朝鮮種人参の栽培が行われ、寛政11年(1799)には御用作人が15人いた。嘉永6年(1853)から報徳仕法が実施され、慶応4年には起返反別七町九反余に達した。城山に金ケ沢城がある。
引田村の概要
村高は「慶安郷帳」では477石余、「元禄郷帳」では785石余、「天保郷帳」では787石余。日光神領。村内は、手洗・高畑・稲山・片山・祝道・岩花・久保・岡・小関の9組に分かれていた。享和元年(1801)時の家数150軒、人口690人、馬84疋。このうち名主1軒、年寄5軒、百姓代9軒。文挟・板橋宿の定助郷。当村では、大芦川を利用しての筏による材木の川下げが行われていた。また、日光御霊屋に薪や煤払い竹、本坊に樒(しきみ)などを上納した。産物としては麻、朝鮮種人参がある。神社は星宮大明神、寺院は曹洞宗長安寺、真言宗滝沢寺(現在廃寺)、蜜蔵院(同)などがあった。
参考
慶安郷帳 1648年
元禄郷帳 1701年
天保郷帳 1834年 |